官は支那歴代の禍源をなした。東漢の袁紹や唐の朱全忠は、宦官を殲して、その勢力を殺いだこともあるが、久しからずして彼等は復活して、依然國權を弄した。明の太祖は歴代の成敗に鑑みて、宦官の處置に意を用ゐ、その數も百人以下に止め、禄を輕くし位を低くし、内臣の政事に干渉する者は斬罪に處すべしといふ、嚴しい掟を鐵板に刻り付けたる、所謂十字の鐵牌を官門に樹てたが、その鐵牌の未だ銹を生ぜざる間に、宦官の員數も勢力も驚くべく増加して、明の天下は半ばは宦官に滅ぶ結果に至つた。
 滿洲から起つた清朝は、宦官の處置に就いて、一層周到なる注意を拂ひ、嚴重なる防禁を設けたのみならず、その諸天子もよく綱紀を緊縮したから、宦官の弊害が歴代の中で尤も尠かつた。それでも同治以後、西太后の時代となると、次第に宦官が政治舞臺に現れて來る。最初西太后の信任を得た宦官を安得海といふ。彼は同治八年(西暦一八六九)に、年二十七歳の頃に、西太后の密旨を受けて、山東地方へ出掛けたが、宦官の皇城外へ出るのは法規違反であるから、山東巡撫の丁寶※[#「木+貞」、第3水準1−85−88]に拘抑せられ、遂に殺戮に遭つた。此事件の際に、東太后や恭親王が、丁寶※[#「木+貞」、第3水準1−85−88]を指嗾して、強硬手段を執らしめたといふので、西太后と東太后との間柄が圓滑を缺き、また西太后と恭親王との間柄が、一層不和となつたと傳へられて居る。安得海の後を承けたのが、彼の有名なる李蓮英である。彼は同知の末頃から光緒年代にかけて、約四十年間西太后の信任を受け、大なる勢力を振うた。彼に關する種々芳しからざる噂が、支那人や歐米人の著書に傳へられて居るが、茲には紹介すまい。李蓮英は明治四十四年に、丁度西太后の崩後二年半ばかりで、六十九歳を以て世を辭した。彼は支那に於ける最後の歴史的宦官である。

         五

 宦官は割勢して居るから、勿論情事の關係ない筈である。併し割勢手術の不完全なる故か、又は他の理由によるか、古來の歴史を見ると、宦官宣淫の事實が尠くない。後魏の孝文帝の皇后馮氏は、宦官の高菩薩と密通した。唐の高力士は帶妻せし上に、他の貴婦人とも通じたと傳へられて居る。中世の宦官に、妻妾を有せし者が多い。殊に明時代を甚しとする。明代の有力な宦官は、帶妻を普通とした。宦官として遊郭に出入し、若くは宦官同志の間に、婦人を爭奪するなど
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