司馬遷の生年に關する一新説
桑原隲藏
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(例)「報[#二]任安[#一]書一篇」
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(例)〔Chavannes; Documents Chinois De'couverts par Aurel Stein. pp. 102, 120, 124.〕
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一
司馬遷が支那の學者達に推奬される程、それ程の大歴史家であるかは、一の疑問と思ふ。率直にいふと、私は彼の史才や史筆に就いて、飽足らなく感ずる點が尠くない。併し彼の作つた『史記』は支那歴史の正史の模範となり、支那の史學界、否更に廣く東亞諸國の史學界に、多大の裨益と影響を與へて居る。この點より觀れば、彼は正しく支那史學の開祖として、百代に尸祝されるべき者で、西洋學者が彼に附與した「支那のヘロドトス」――The Herodotus of China――といふ稱號も、先づ當然と認めねばなるまい。所がこの支那史學の開祖たる司馬遷の事蹟は、存外に曖昧で確實に知られて居らぬ。
一體司馬遷の事蹟は『史記』卷百三十の太史公自序と、『漢書』卷六十二の司馬遷傳とを、第一の史料とする。太史公自序は司馬遷の自傳であるから、彼の事蹟に就いては十分詳實なるべき筈であるが、實際は必ずしも左樣でない。司馬遷の粗笨なる頭腦と、豪放なる筆致とは、記載せざるべからざる事項をも省略し、明確とせざるべからざる事項をも曖昧にして居る。班固の司馬遷傳も「報[#二]任安[#一]書一篇」の増補を除けば、その他は太史公自序の無責任なる鈔襲のみで、上述の缺陷に就いて、何等裨補する所がない。要するに『史記』と『漢書』とのみでは、司馬遷の事蹟を正確に知ることが出來ぬ。私は不確實なる司馬遷の事蹟の中で、彼の生年に就いて、聊か所見を披瀝したい。『史學研究』の創刊に際して支那史學の開祖たる司馬遷に關する事蹟を紹介するのは、寧ろ適當なる題目かと思ふ。
二
司馬遷の生年は、『史記』にも『漢書』にも明記されて居らぬ。『漢書』は兔に角、『史記』の太史公自序に、自身の生年を缺くが如きは、實に一の不可思議である。それで司馬遷の生年は、遂に確知することが出來ぬ。清の呉榮光の『名人年譜』にも、民國の張惟驤の『疑年録彙編』にも、すべて司馬遷の生年を登録してない。司馬遷の生年に關する學術的研究は、民國の王國維を最初とする。王國維が民國五年(西暦一九一六)に發表した「太史公繋年考略」(『廣倉學窘叢書』第一集所收)や、民國十二年(西暦一九二三)に、それと内容は同じく題目を異にして發表した「太史公行年考」(『觀堂集林』卷十一所收)に、委細に司馬遷の生年を考證して居る。王國維の所説に反對して、民國の張惟驤が、昨民國十七年(西暦一九二八)に、『太史公疑年考』を公刊して、別に司馬遷の生年を考證して居る。
王國維の所説は、唐の張守節の『史記正義』に、太史公自序の太初元年(西暦前一〇四)の條下に、案遷年四十二歳と註せるを根據として、太初元年より四十一年前に溯つた、景帝の中元五年(西暦前一四五)を司馬遷の生年と認むるのである。同時に唐の司馬貞の『史記索隱』に、西晉の張華の『博物志』を引いて、太史公自序の元封三年(西暦前一〇八)に、司馬遷が太史令となつた時の註に、
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博物志、太史令、茂陵、顯武里、大夫、司馬〔遷〕――同治九年に金陵書局で刊行した『史記集解索隱正義合刻本』には、司馬遷年二十八と明記してある――年二十八。三年六月乙卯。除[#二]六百石[#一]也。
[#ここで字下げ終わり]
とある二十八は、三十八の誤で、元封三年より三十七年前に溯つた景帝の中元五年(西暦前一四五)を、司馬遷の生年と認むるのである。
張惟驤の主張の核心は、『史記』の太史公自序の本文より推測して、元封元年(西暦前一一〇)に父司馬談の卒去せし時に、司馬遷は年方に二十歳なりと斷定して、元封元年より逆算して十九年前の武帝の元光六年(西暦前一二九)を、司馬遷の生年と認めるのである。同時に彼はまた『史記索隱』に引く所の『博物志』の「年二十八。三年六月乙卯」といふ文句を、太初三年(西暦前一〇二)のことに擬定し、太初三年より二十七年前に溯つて元光六年(西暦前一二九)を司馬遷の生年と認むるのである。
王張二氏の考證の努力は尊重に價するが、併し雙方の主張の内容には、多少の弱點の存在を否定出來ぬ。私はこの二氏とは別に、武帝の建元六年(西暦前一三五)を、司馬遷の生年とする新説を學界に提供したい。この新説の基礎は、上來既に再度も引用した『博物志』の記事に據つて、元封三年(西暦前一〇八)を司馬遷二十八歳の時と認める點に在る。元封三年より二十七年前に溯つた建元六年(西暦前一三五)を、司馬遷の生年と主張するのである。事實を告白すると、私は從來特に司馬遷の生年に就いて、何等研究の手を著けて居らぬ。ただ一兩日前に、王張二氏の主張を對比檢討した際に、突然思ひ付いた新説である。文字通り一夜作りの新説である。從つて幾分の弱點もあり、その弱點は私自身によく覺知して居る。弱點はあるが、同じく弱點のある王張二氏の所説に伍して、或は鼎足の位置を保ち得るか或は僥倖にして優勝の位置を贏《か》ち得るかと、試に茲に發表して、學界の批正を仰ぎたいと思ふ。
三
司馬遷生年異説對比表
西暦前一四五 景帝中元五年 [王國維説一歳]司馬遷生
西暦前一四四 景帝中元六年
西暦前一四三 景帝後元元年
西暦前一四二 景帝後元二年
西暦前一四一 景帝後元三年
西暦前一四〇 武帝建元元年
西暦前一三九 武帝建元二年
西暦前一三八 武帝建元三年
西暦前一三七 武帝建元四年
西暦前一三六 武帝建元五年
西暦前一三五 武帝建元六年 [自説一歳]司馬遷生
西暦前一三四 武帝元光元年
西暦前一三三 武帝元光二年
西暦前一三二 武帝元光三年
西暦前一三一 武帝元光四年
西暦前一三〇 武帝元光五年
西暦前一二九 武帝元光六年 [張惟驤説一歳]司馬遷生
西暦前一二八 武帝元朔元年
西暦前一二七 武帝元朔二年
西暦前一二六 武帝元朔三年 [王説二十歳]周[#二]游天下[#一]
西暦前一二五 武帝元朔四年
西暦前一二四 武帝元朔五年
西暦前一二三 武帝元朔六年
西暦前一二二 武帝元狩元年
西暦前一二一 武帝元狩二年
西暦前一二〇 武帝元狩三年
西暦前一一九 武帝元狩四年
西暦前一一八 武帝元狩五年
西暦前一一七 武帝元狩六年
西暦前一一六 武帝元鼎元年 [自説二十歳]周[#二]游天下[#一]
西暦前一一五 武帝元鼎二年
西暦前一一四 武帝元鼎三年
西暦前一一三 武帝元鼎四年
西暦前一一二 武帝元鼎五年
西暦前一一一 武帝元鼎六年 [王説三十五歳]西使[#二]巴蜀以南[#一] [自説二十五歳]西使[#二]巴蜀以南[#一]
西暦前一一〇 武帝元封元年 [王説三十六歳]父司馬談卒 [張説二十歳]周[#二]游天下[#一]/西使[#二]巴蜀以南[#一]/父司馬談卒 [自説二十六歳]父司馬談卒
西暦前一〇九 武帝元封二年
西暦前一〇八 武帝元封三年 [王説三十八歳]爲[#二]太史令[#一]/(博物志)年二(當作三)十八、三年六月乙卯、除[#二]六百石[#一]也 [張説二十二歳]爲[#二]太史令[#一] [自説二十八歳]爲[#二]太史令[#一]/(博物志)年二十八、三年六月乙卯、除[#二]六百石[#一]也
西暦前一〇七 武帝元封四年
西暦前一〇六 武帝元封五年
西暦前一〇五 武帝元封六年
西暦前一〇四 武帝太初元年 [王説四十二歳](正義)年四十二 [自説三十二歳](正義)年四(似當作三)十二
西暦前一〇三 武帝太初二年
西暦前一〇二 武帝太初三年 [張説二十八歳](博物志)年二十八、三年六月乙卯、除[#二]六百石[#一]也
西暦前一〇一 武帝太初四年
四
(A)[#「(A)」は縦中横] 王國維説の弱點
『史記索隱』に引く所の張華の『博物志』の記事は、その形式や内容から觀て、司馬遷の告身か履歴等に關係ある漢時代の簿書を、その儘に抄録したもので、尤も信憑すべき史料である。この最も信憑すべき史料の年二十八を、年三十八と改竄する所に、王國維説の弱點を免れぬ。勿論これは下の太初元年の條の『史記正義』に、司馬遷の年四十二とあるに一致せしむべく、已むを得ず改竄したとは思ふが、私の所見に據ると、張守節の註にしかく多大の信用を置いて、『博物志』の記事をその犧牲に供したことは、到底贊同し難い弱點と思ふ。
『漢書』の司馬遷傳に、司馬遷がその晩年に、故人の益州刺史任安に報じた書面を載せてある。その書面に司馬遷が彼自身の境遇を、
[#ここから2字下げ]
僕不幸蚤失[#二]二親[#一]。無[#二]兄弟之親[#一]。獨身孤立。
[#ここで字下げ終わり]
と敍して居る。王國維説に據ると、司馬遷が父を失つたのは、三十六歳の時に當る。張惟驤の論駁せる如く、三十六歳ではやや蚤失[#二]二親[#一]といふ文句に適合せぬ。これも王國維説の弱點であるまいか。
五
(B)[#「(B)」は縦中横] 張惟驤説の弱點
張惟驤説は王國維説に比して、一層弱點が多いと思ふ。第一に張惟驤は父司馬談の卒去した元封元年を、司馬遷の年二十の時と斷じ、これが彼の主張の中心をなして居るが、『史記』の太史公自序の本文は、決してかかる推斷を許さぬ筈である。太史公自序に、
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〔年〕二十而南游[#二]江淮[#一]。上[#二]會稽[#一]探[#二]禹穴[#一]。※[#「門<規」、第3水準1−93−57][#二]九疑[#一]。浮[#二]於※[#「さんずい+元」、第3水準1−86−54]湘[#一]。北渉[#二]※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]泗[#一]。講[#二]業齊魯之都[#一]。觀[#二]孔子之遺風[#一]。郷[#二]射鄒※[#「山+澤のつくり」、第3水準1−47−91][#一]。※[#「戸/乙」、241−12][#二]困※[#「番+おおざと」、第3水準1−92−82]、薜、彭城[#一]。過[#二]梁楚[#一]以歸。於[#レ]是遷仕爲[#二]郎中[#一]。奉[#レ]使西征[#二]巴蜀以南[#一]。南略[#二]※[#「(項−頁)+卩」、第4水準2−3−53]、※[#「竹かんむり/乍」、第4水準2−83−36]、昆明[#一]。還報[#レ]命。是歳(元封元年)天子始建[#二]漢家之封[#一]。而太史公(司馬談)留[#二]滯周南[#一]。故發憤且[#レ]卒。而子遷適使反。見[#二]父於河洛之間[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
とある記事は漢文に伴ふ通弊として、隨分曖昧の點もあるが、年二十とは專ら司馬遷の天下を周游した時代を指すので、司馬遷が巴蜀に使した時代や、將に死せんとする父司馬談と面會した時代までを管到せぬ。司馬遷が巴蜀に使し、河洛の間で父に面會したことも、皆年二十歳時代のことと認むるのは、確に張惟驤の誤解である。當時の交通の状態から推しても、此の如き廣漠なる地域を、一年の間に周行往還出來る筈がない。司馬遷が巴蜀以南に奉使したのは、元鼎六年(西暦前一一一)のことで、その使命を果して歸朝し、父司馬談に河洛の間に面會したのは、その翌元封元年(西暦前一一〇)のことである。これ既に王國維の論證した所で、蛇足を要せぬ。司馬遷が天下を周游したのも一時のこと、その巴蜀地方に使したことも一時のこと、その河洛の間に父を訪うたこ
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