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(B)[#「(B)」は縦中横] 張惟驤説の弱點
張惟驤説は王國維説に比して、一層弱點が多いと思ふ。第一に張惟驤は父司馬談の卒去した元封元年を、司馬遷の年二十の時と斷じ、これが彼の主張の中心をなして居るが、『史記』の太史公自序の本文は、決してかかる推斷を許さぬ筈である。太史公自序に、
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〔年〕二十而南游[#二]江淮[#一]。上[#二]會稽[#一]探[#二]禹穴[#一]。※[#「門<規」、第3水準1−93−57][#二]九疑[#一]。浮[#二]於※[#「さんずい+元」、第3水準1−86−54]湘[#一]。北渉[#二]※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]泗[#一]。講[#二]業齊魯之都[#一]。觀[#二]孔子之遺風[#一]。郷[#二]射鄒※[#「山+澤のつくり」、第3水準1−47−91][#一]。※[#「戸/乙」、241−12][#二]困※[#「番+おおざと」、第3水準1−92−82]、薜、彭城[#一]。過[#二]梁楚[#一]以歸。於[#レ]是遷仕爲[#二]郎中[#一]。奉[#レ]使西征[#二]巴蜀以南[#一]。南略[#二]※[#「(項−頁)+卩」、第4水準2−3−53]、※[#「竹かんむり/乍」、第4水準2−83−36]、昆明[#一]。還報[#レ]命。是歳(元封元年)天子始建[#二]漢家之封[#一]。而太史公(司馬談)留[#二]滯周南[#一]。故發憤且[#レ]卒。而子遷適使反。見[#二]父於河洛之間[#一]。
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とある記事は漢文に伴ふ通弊として、隨分曖昧の點もあるが、年二十とは專ら司馬遷の天下を周游した時代を指すので、司馬遷が巴蜀に使した時代や、將に死せんとする父司馬談と面會した時代までを管到せぬ。司馬遷が巴蜀に使し、河洛の間で父に面會したことも、皆年二十歳時代のことと認むるのは、確に張惟驤の誤解である。當時の交通の状態から推しても、此の如き廣漠なる地域を、一年の間に周行往還出來る筈がない。司馬遷が巴蜀以南に奉使したのは、元鼎六年(西暦前一一一)のことで、その使命を果して歸朝し、父司馬談に河洛の間に面會したのは、その翌元封元年(西暦前一一〇)のことである。これ既に王國維の論證した所で、蛇足を要せぬ。司馬遷が天下を周游したのも一時のこと、その巴蜀地方に使したことも一時のこと、その河洛の間に父を訪うたこ
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