ニも一時のことである。故に太史公自序の記事から推すと、司馬遷が病床の父に河洛の間に面會したのは、年二十歳以後のことで、決して年二十歳の時のことでない。これを司馬遷の二十歳の時のことと斷ずるのは、張惟驤説の救はれざる一大弱點といはねばならぬ。
 張惟驤は『史記索隱』に引用せる『博物志』の記事を、太初三年(西暦前一〇二)に繋け、この時司馬遷の年二十八と解して居る。『博物志』の記事は、單に三年六月乙卯とあつて、年號を缺くから、之を太初三年にも繋け得る樣であるが、司馬貞がその『史記索隱』に、特に元封三年の條下に繋けたものを、確たる理由なくして、勝手に太初三年に移動すべきであるまい。況んや太初三年の六月には、乙卯の日が見當らぬ(『三正綜覽』參看)。張惟驤は太初三年の六月に乙卯の日がないから、之を閏六月乙卯の日に擬せんとするが、『博物志』には六月乙卯とあつて、閏六月乙卯と記してない。張惟驤は如何にしてこの弱點を彌縫し得るであらうか。
『史記正義』に太史公自序の太初元年の條下に案遷年四十二歳と註してある。張惟驤は之を、
[#ここから2字下げ]
正義所[#レ]引。案遷四十二歳。謂[#三]太史公壽止[#二]四十二[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
と解して、勝手に之を彼が司馬遷の生年と主張する、元光六年(西暦前一二九)より四十一年後の後元元年(西暦前八八)に移して、司馬遷は後元元年に壽四十二歳を以て卒去したものと主張して居る。年四十二歳を享年四十二歳と解釋し得るかが一の疑問であるが、假りにこの解釋を可能としても、張守節が太初元年の條下に、明かに時年四十二歳の意味で加へた註を、勝手に享年四十二歳の意味に解釋し、剩へ之を勝手に後元元年の條に移すなどは、牽強附會の尤も甚しきものとして斷然排斥せなければならぬ。

         六

 (C)[#「(C)」は縦中横] 自説の弱點
 私の新説の弱點は、『史記正義』の張守節の所傳との衝突に在る。張守節に據ると、太初元年に司馬遷の年四十二歳に當るべき筈であるが、私の新説では、太初元年に司馬遷の年三十二歳に當り、茲に十歳の相違を生ずる。張守節の所傳を自説に一致せしむる爲には、卅とあるべきを張守節が※[#「卅」で縦棒が四本、243−8]と誤記したものとでも解釋せなければならぬ。丁度王國維の「太史公行年考」に、敦煌出土の漢時代の木簡に「新望興盛里公
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