崇骭ウ鼎五年
西暦前一一一 武帝元鼎六年 [王説三十五歳]西使[#二]巴蜀以南[#一]  [自説二十五歳]西使[#二]巴蜀以南[#一]
西暦前一一〇 武帝元封元年 [王説三十六歳]父司馬談卒 [張説二十歳]周[#二]游天下[#一]/西使[#二]巴蜀以南[#一]/父司馬談卒 [自説二十六歳]父司馬談卒
西暦前一〇九 武帝元封二年
西暦前一〇八 武帝元封三年 [王説三十八歳]爲[#二]太史令[#一]/(博物志)年二(當作三)十八、三年六月乙卯、除[#二]六百石[#一]也 [張説二十二歳]爲[#二]太史令[#一] [自説二十八歳]爲[#二]太史令[#一]/(博物志)年二十八、三年六月乙卯、除[#二]六百石[#一]也
西暦前一〇七 武帝元封四年
西暦前一〇六 武帝元封五年
西暦前一〇五 武帝元封六年
西暦前一〇四 武帝太初元年 [王説四十二歳](正義)年四十二  [自説三十二歳](正義)年四(似當作三)十二
西暦前一〇三 武帝太初二年
西暦前一〇二 武帝太初三年  [張説二十八歳](博物志)年二十八、三年六月乙卯、除[#二]六百石[#一]也
西暦前一〇一 武帝太初四年

         四

 (A)[#「(A)」は縦中横] 王國維説の弱點
『史記索隱』に引く所の張華の『博物志』の記事は、その形式や内容から觀て、司馬遷の告身か履歴等に關係ある漢時代の簿書を、その儘に抄録したもので、尤も信憑すべき史料である。この最も信憑すべき史料の年二十八を、年三十八と改竄する所に、王國維説の弱點を免れぬ。勿論これは下の太初元年の條の『史記正義』に、司馬遷の年四十二とあるに一致せしむべく、已むを得ず改竄したとは思ふが、私の所見に據ると、張守節の註にしかく多大の信用を置いて、『博物志』の記事をその犧牲に供したことは、到底贊同し難い弱點と思ふ。
『漢書』の司馬遷傳に、司馬遷がその晩年に、故人の益州刺史任安に報じた書面を載せてある。その書面に司馬遷が彼自身の境遇を、
[#ここから2字下げ]
僕不幸蚤失[#二]二親[#一]。無[#二]兄弟之親[#一]。獨身孤立。
[#ここで字下げ終わり]
と敍して居る。王國維説に據ると、司馬遷が父を失つたのは、三十六歳の時に當る。張惟驤の論駁せる如く、三十六歳ではやや蚤失[#二]二親[#一]といふ文句に適合せぬ。これも王國維説の弱點であるまいか。

       
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