説は疑ふべき餘地がないが、同時に西暦七百九十一二年の交の薩末※[#「革+建」、79−15]産の紙を調査すると、純然たる襤褸《ぼろ》紙で樹皮などの生纖維は毫も混和されて居らぬ事實も亦信用せねばならぬといふに歸着する。從つて製紙の原料にかく顯著なる相違のある原因は、西暦七百五十一年から七百九十一二年にかけて約四十年間に、マホメット教國内に起つたものと認定せなければならぬ。
Wiesner 教授はマホメット教國の産紙と天山南路で發掘された支那紙とに對して綿密なる化學試驗、顯微鏡調査を行ひ、この二國の紙を比較して、大要次の如き斷案を下して居る。
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唐時代の支那紙は幾分の敝布を混じて居るけれども、その主要なる原料は桑其他の雙子葉植物の皮である。支那人は製紙法をマホメット教國に傳へたが、薩末※[#「革+建」、80−5]《サマルカンド》附近には第一の原料ともいふべき桑樹が缺乏して居るから、必要上次第に敝布の分量を増加し、それでも製紙の目的を達し得ることを經驗すると、最後には敝布――マホメット教國に豐富なるリンネン襤褸――のみで紙を製造することとなつた。紙は支那から傳つたが、そ
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