へたといふ(27[#「27」は縦中横])。ヨーロッパの中世紀に紙は普通にバンビク紙(Charta Bambycina)、若くはダマスク紙(Charta Damascus)と呼ばれて居る。Bambyce とは Euphrates 河(『唐書』の弗利剌河)の右岸にあつた一都會である。Damascus(元代の的迷失吉《ダマスク》)は申す迄もなく Syria 地方の名都會である。當時マホメット教國からヨーロッパへ輸入した紙は多くこの地方の産であることが察知される。今日ヨーロッパ諸國の紙に關係ある言葉で、アラビア語から派生して居るものもある。一例を擧げると、英語で紙一|束《しめ》を Ream といふが、之はスペイン語の Resma イタリー語の Risma ドイツ語の Ries フランス語の Rame と等しく、何れもその語源をアラビア語の Rezma に求むべきである(28[#「28」は縦中横])。Rezma とは元來小包の意味である。

         五

 オーストリーのウイーンに Rainer 太公といふ貴族があつて、古紙の蒐集で世間に聞えて居る。今より三十餘年前たしか西暦千八百七十七八年の交に、エジプトの 〔Faiyu^m〕 地方其他二三の地方で、澤山の古文書が發掘された。この古文書の大部は千八百八十四年以來 Rainer 太公の所有に歸した。その古文書の總數は十萬以上に達し、その年代古きは西暦前十四世紀より、新しきは西暦後十四世紀まで、約二千七百年間に跨つて居る。中にはカヤツリ紙もあれば革紙もあるが、併し襤褸紙(Rag−Paper)も中々多い。Rainer 太公はただに古紙を蒐集するのみでは滿足せず、蒐集した古紙を科學的に研究することを企てた。この研究の爲に多くの學者を依頼したが、その中で特別にこの研究に深き關係をもつた學者が二人ある。一人はウイーン大學の Karabacek 教授で主として古文書の調査と紙の歴史の研究を擔當して居る。一人は同じくウイーン大學の Wiesner 教授で專ら顯微鏡調査と化學試驗とで、古代の紙の成分及びその製法などを研究して居る。此等の人々の研究調査の結果は數囘の報告書となつて世に公にされた(29[#「29」は縦中横])。この報告書が公にされてから世界の紙の歴史は始めて明瞭となつたのである。吾が輩は直接その報告書を見たことはないが、その大要は Hoernle 氏の論文(30[#「30」は縦中横])に引用されてあるから、Hoernle 氏のを更に節約して古紙研究の結果概略を下に紹介いたさう。
 Rainer 太公の手許に蒐集された古紙のうちには、薩末※[#「革+建」、78−8]《サマルカンド》を始めマホメット教國で製造された紙が澤山ある。年代が古くて確實な方では、西暦八百七十四年、九百年、九百九年の文書がある。年代は明記されてないけれども他の理由によつて、西暦七百九十一年若くば二年と認定すべき文書もある。この最後の文書は薩末※[#「革+建」、78−10]で支那人の捕虜が紙を製造し始めてから、丁度四十年に當つて居る。Wiesner 教授はこのマホメット教國製造の古紙に就いて顯微鏡調査を試みた結果、此等の古紙は何れも純然たるリンネンの敝布《ふるぎれ》を原料として、決して樹皮などの生纖維を混和して居らぬことが判明した。
 併し一方ではマホメット教國の史家等は、最初薩末※[#「革+建」、78−14]で紙を製造した時に、草木即ち生の植物纖維を原料としたと傳へて居る。尚ほ又、ペルシア語及びアラビア語で紙を 〔Ka^ghaz〕 又は 〔Ka^ghad〕 といふ。之は印度の Kaghaz といふ言葉と同じく、何れも支那の穀紙(Kuchih 古音 Kok−dz)を訛つたものである(31[#「31」は縦中横])。古傳説が草木を製紙の原料としたと傳へて居り、またマホメット教國へ最初輸入された紙が、穀紙を訛つた 〔Ka^ghaz〕 又は 〔Ka^ghad〕 といふ名稱で知られて居る事實を併せ考へると、當初|薩末※[#「革+建」、79−1]《サマルカンド》で支那人の捕虜によつて製造された紙は、主として樹皮を原料に用ひたであらうといふことは、殆ど疑ふ餘地がないやうに思はれる。
 支那の新疆の探檢が行はれると共に、この地方から古文書が發掘された。英國の Stein 氏が天山南路で發掘した古文書は隨分あるが、その中に唐の代宗から徳宗時代にかけての古文書で、年代の明記されて居るものが都合七種ほどある。即ち代宗の大暦三年(西暦七六八)、徳宗の大暦十六年(實は建中二年、西暦七八一)、大暦十七年(實は建中三年、西暦七八二)、建中三年(西暦七八二)、建中七年(實は貞元二年、西暦七八六)、建中八年(實は貞元三年、西暦七八七)、貞元六年(西
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