安西四鎭の節度使の高仙芝が、或る事情の下に石國を征伐した。高仙芝はもと高麗人で唐に仕へ、當時に聞えた名將であつたが、僞つて石國王に和を許しながら、其不意を襲うて之を擒にし、大虐殺、大掠奪をやつたのみならず、石國王を遠く都の長安に送つて、闕下に切り捨てた。この不埒《ふらち》の行爲に石國の王子は非常に憤慨いたし、四隣の諸胡國も之に同情を寄せ、相倶に大食《タージ》國の援兵を乞うて、唐軍に復仇せん計畫をした。
この時|大食《タージ》國(多氏國又は大寔國)即ちマホメット教國では Ommeya 王家已に倒れて、〔Abba^s〕 王家が方に興つて來て居る。この大革命の舞臺に立つて、尤も主要なる役目を務めたのは、有名な 〔Abu^ Muslim〕 即ち『唐書』の竝波悉林《アブムスリム》その人である。彼は 〔Abba^s〕 王家の 〔Abul Abba^s〕(『唐書』の阿蒲羅拔《アブルアバス》)を擁して Ommeya 王家の王 〔Merwa^n〕(『唐書』の末換《メルワン》)を殺したのは、西暦七百五十年に當る。かくて所謂黒衣大食が白衣大食に代つて間もなく、石國以下の諸胡國との交渉が開始された。
〔Abu^ Muslim〕 は當時 〔Khora^sa^n〕(『唐書』の呼羅珊《ホラサン》)地方の總督であつたが、野心滿々たる彼は、大支那の威力を摧くは是時こそと、直に部將 〔Ziya^d ibn Sa^lih〕 を派遣して石國を助けることとなつた。之に對して高仙芝は天寶十載(西暦七五一)に葛邏禄《カルルク》(Karluk)、拔汗那《フエルガナ》(〔Fergha^na〕)以下諸國の援兵を併せて、怛羅斯《タラス》川(今の中央アジアの 〔Tara^z〕 川)の附近に大食《タージ》を撃つたが、反つて 〔Ziya^d ibn Sa^lih〕 の爲に大敗を蒙つた。この時の戰況は、支那方面の材料では『資治通鑑』が尤も詳細で、次の如く記載してある。
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高仙芝(中略)撃[#二]大食[#一]。深入七百餘里。至[#二]恒羅斯城[#一]。與[#二]大食[#一]相持五日。葛羅禄《カルルク》部衆叛。與[#二]大食[#一]夾[#二]攻唐軍[#一]。仙芝大敗。士卒死亡略盡。所[#レ]餘纔數千人。右威衞將軍李嗣業。勸[#二]仙芝[#一]宵遁。道路阻隘。拔汗那《フエルガナ》部衆在[#レ]前。人畜塞[#
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