ことか、許愼の解説は勿論、段玉裁の注釋を見ても不明瞭である。『説文解字』に絮敝緜也といふ。蔡倫が製紙の原料として使用せし敝布を廣義に解釋すると、その中に絮をも包括し得べきやうに思はれる。併し清初の方以智などは之とは反對で、絮を擣き之を荐きて紙を製造したのは、西漢時代若くはその以前からのことである。蔡倫は絮に代へるに樹皮、麻頭、敝布、漁網等を以てしたのみであると主張して居る(9)。Hirth 氏の「支那に於ける紙の發明」といふ論文も此點に關しては、方以智と略同樣な考を持つて居るやうに見える(10[#「10」は縦中横])。Hoernle 氏(11[#「11」は縦中横])や Jacob 氏など(12[#「12」は縦中横])は、更に一歩を進めて、古代トルコ種族の使用した氈の製法は、紙のそれと同樣である。多分古代の支那人は北狄の氈の製法に傚ひ、毛に絮を代へて紙を製造したものであらうと考へて居るが、これは想像に過ぎて、頗る信用し難い。
Hoernle 氏や Jacob 氏の説はしばらく措き、『説文解字』は大體永元十二年即ち蔡倫が紙を製出した以前に編纂されたもので、許愼の紙の字の解説が其時の儘とすると、方以智等の説に可なりの根據が出來、從つて蔡倫はただ製紙の新原料を發見したのみで、製紙の方法を發明したものでなく、發明者としての蔡倫の聲價は幾分低落すべきこととなるが、たとひ蔡倫以前に絮を製紙の原料として、今日の樣な紙を作つたことを事實としても、植物纖維を製紙の原料に利用したのは蔡倫の功で、植物纖維を原料として使つた紙、例せば麻紙、穀紙、襤褸紙、Rag−Paper などが古今を通じて、尤も人文の發達に貢獻したのであるから蔡倫の功績はやはり廣大無邊といはねばならぬ。斯には兔角の議論を避け、しばらく『後漢書』の記事を素直に解釋して、蔡倫を製紙の發明者として置かう。
三
支那の製紙法がマホメット教國へ傳つたのは、唐の玄宗時代のことである。當時西域に石國といふのがあつた。今の Tashkend(元時代の塔什元《タシユケンド》)が即ち唐代の石國である。Tashkend といふ名自身がトルコ語で石國の意味である。西暦八世紀の初頃から、石國を始め其附近の諸胡國は、或時は唐に或時は大食《タージ》に、國威の盛なる方に羈縻《きび》される姿となつた。玄宗の天寶九載(西暦七五〇)に
前へ
次へ
全16ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング