。併しこの問題を解決するには、成るべく多くの古代の支那紙を蒐集して、之を Wiesner 教授と同樣の方法で調査する外はない。事實は最後の解決である。
六
Stein 氏が天山南路の探檢に着手して以來、ヨーロッパ諸國の探檢者は陸續この方面に出掛けた。ドイツからは最初に 〔Gru:nwedel〕 氏(西暦一九〇二―一九〇三)次に Le Coq 氏(西暦一九〇四―一九〇六)第三囘には 〔Gru:nwedel〕 及び Le Coq 二氏(西暦一九〇六―一九〇七)が出掛けて、幾多の古文書を發掘した。英國からは Stein 氏が再び天山南路に出掛け(西暦一九〇六―一九〇八)敦煌で幾多の遺籍、文書を發見した。フランスの Pelliot 氏も亦この方面に出掛け(西暦一九〇六―一九〇九)敦煌で大發見をやつたことは、我が國人の耳に猶ほ新なる所である。此等の探檢によつて得た成績は、多くは未だ發表にならぬけれども、其うちに唐代若くばその以前の文書――吾が輩が前項に述べた支那紙の原料及び製法問題を解決するに屈竟なる材料が少くないことだけは確實である。
わが國の西本願寺の大谷伯爵も亦去る明治三十五年以來この方面に探檢隊を派遣して居る。第一囘第二囘の探檢は已に終を告げ、今は第三囘探檢中である。第一囘第二囘の探檢の獲物のうちに、唐の玄宗の天寶五載(西暦七四六)の牒状がある。之は怛邏斯《タラス》城の戰役前正に五年のもので、マホメット教國の産紙と支那紙との原料相違如何を調査するに當つて、有力の材料たるべきものである。其他年號によつて若くは書體より推して、南北朝若くばその以前と認定すべき古寫經、古文書頗る多くして一々列擧するに暇ないが、中に就いて尤も注意に價するもの一二を擧げると次の如きものがある
第一が西晉の元康六年(西暦二九六)の古寫經である。松本文三郎博士が已に紹介された通り(33[#「33」は縦中横])この古寫經は西晉の竺法護譯の『諸佛要集經』である。寫經や書道の方面から觀ても隨分珍とすべきではあるが、支那紙研究の材料として一層貴重すべきである。元康六年は蔡倫が紙を發明した元興元年を距ること僅に百九十一年、即ちこの古寫經の用紙は支那で紙が發明されてから、後くも百九十二年目のものである。恐くは今日に傳はれる支那紙の最古のものであらう、古紙研究の屈竟の材料たるべきは申す
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