持つて客の前に往き、其左右へ二人附いて、さうして三人進んで自分の遣らうとする所の人の前へそれを出すです。さうすると片方の貰ふ先生は無論蒙古人でクーミーの嫌ひな者はないから咽喉を鳴らしてそれを取らうとすると逃げて仕舞ふ。又暫くするともう一遍出る。又手を出すと又逃げる。三度か四度必ず盃を渡し掛けて先方が取らうとすると逃げて仕舞つて、四度か五度目に初めて酒を注ぎて飮ますので、さうすると咽喉を鳴らして居る時であるから、それを貰ふと餘程美味いさうです(笑聲起る)。
次に食物はどうかと云ふと、蒙古人は、否蒙古人ばかりでもありませぬ、他の北狄など言ふ蠻族には一體に米がありませぬ、狩りをやつて野獸を捕つてそれを食ふのが唯一の食物ですから、平素から食物を非常に儉約しますが、蒙古人などは其の最も甚だしきもので、どんなものでも食ふ。見付けた物を食ふ。鼠も食ひます。鼠の死んだのでも食ふ。ペストの時には危險な話ですけれども(笑聲起る)、併し蒙古人がペストに罹つたといふ話も餘り聞かない。死んだ鼠でも食ひます。面白い話は虱までも食ふといふ(笑聲起る)。蒙古人は他國人に向つて、君等はこの虱を食はないか、是れは私等の子供の血を啜つたり肉を喰つたりした奴だ、此人間の血肉を餌食とする動物を食はないものがあるものかと云つて虱をすすめたといふことがあります。實際考へれば他の草を食つたり、詰らぬ物を食つて生活して居る動物でも可成り美味いから、人間の血とか肉より食はない虱の方が餘程美味いかも知れない(笑聲起る)。いろいろな物を食ふですが、食ふ時には無論手で掴むです。箸とか肉刺とかいふそんな贅澤な物はありませぬから手で掴む。濟めば構ひはしない靴などで手を拭ふです。さうでなければ何れ野天でありますので草がありますから草でも拭きます。
蒙古人は一體さきに申す通り極めて少量の食物しか取らぬのですから、食物に對しては非常に儉約するですから、お客樣に對しても百人位のお客さんを招んで置いて、唯一つの小豚か何かを一疋殺すです。それですからなかなか皆に渡らぬ位である。けれども蒙古人は極めて少く食つて、それで滿腹するのです。百人程のお客さんにそんな小さい獸類一疋位切つて、それだけでお仕舞ひです。日本人のやうに二皿も三皿も出たりなんぞする贅澤な御馳走は望むことが出來ない。それから切り取つた所の骨なども決して捨てない。骨などを捨るなどといふ贅澤なことはしない。自分に切つて貰つた骨があれば、必ず其骨は腰に下げて居る皮の袋の中へ入れて置く。空腹になつた時分にはそれを出して舐つて又入れて置く。幾度も舐つて終に木を噛んで居ると同じになれば始めて捨てる。決して宴會へ行つて骨があつたからと云つて其骨を遺して歸るといふそんな贅澤なことはしない。それを大切に保存しておき暇のあるとき出して舐る。なかなか食物に對しては儉約なものです。それで其ヨーロッパあたりから蒙古へ行つた人々、例へば前に言つたプラノ・カルピニとかルブルックといふ人々は蒙古にとつてお客樣ですから、勿論蒙古の政府から食料を渡して呉れる。けれどもそれだけでは中々不足勝で中には腹を減らして泣いて居つた人があります。初め呉れた折りに一度分の食物だらうと思つて一遍に食つて仕舞つた所が後から三度分だと聞いて大いに困つたのです。蒙古人は食量が少いから他國人も少いと思つて居る。餘り食物の少量なのは衞生に害があるやうですけれども、是れは戰爭に當つて非常に蒙古人の利益になることがあります。追撃などの場合には數日間殆ど絶食の有樣で敵を追窮することが出來ます。酒嚢飯袋などいふ無藝大食の者より遙か優つて居ります。隨分話が長くなりますが一番後に戰爭の時にはどんなことをするかといふことのお話をしますが、是れは少し面白いです。
戰爭の話 蒙古人は平素は無論牧畜が職業です。いざ戰爭と云ふと其平素牧畜をやつて居つた蒙古人が皆徴發されて兵隊になる。兵隊には給料がありませぬ。何年やつても外債を起す必要はない。何故だと云ふと只で働かせるから。その代り戰爭に行きますと、それには分捕品を分けて遣る。戰爭に行つたら必ず分捕物をする。分捕りをする爲に戰爭をするのです。分捕品を分けるときには丁度此頃相撲などで大關が何程、關脇が何程と云うて割を取るやうにちやんと按分比例になつてあると同樣に、大將には何人分、普通の兵卒はどれだけと云うてちやんと分捕り物を分ける役人があります。其役人が銘々に分捕品を分けて遣ります。それで生活をして參ります。戰爭のときは給料を貰ふのが目的でなくして分捕品を分けるのが目的ですから、何年やりても少しも差支ない。さうして愈※[#二の字点、1−2−22]戰爭をするときには蒙古兵は大抵騎馬です。蒙古人は小さい時分から皆馬へ乘ることを稽古します。三歳位の時分から馬へ乘つて弓を射ることを稽古しますからして七八歳になつたならばなかなか恐しいものです。蒙古の太祖成吉思汗の西域征伐から歸つて來まして今のアルタイ山の附近に葉迷爾《エミール》といふ河がありますが、小さな河ですが、其河へ來た所が其頃まだ子供であつた世祖|忽必烈《フビライ》と其弟で後にペルシアの王樣になりました旭烈兀《フラグ》が祖父の成吉思汗を迎に參つたが、其の時世祖は十一歳、旭烈兀は八歳と思ひますが、其十一歳と八歳の子供が祖父さんの西域から歸るのを迎ひに行つて土産に途中で狩りをしまして、八歳の旭烈兀が鹿を射留めますし、十一歳の世祖は兔を射落して祖父さんから賞められたといふ話がありますが、なかなか日本の人では八歳やそこらで鹿を殺したり、素早い兔を殺したりすることは容易に出來ないが、蒙古人は狩りなどは上手です。隨つて馬に乘つて弓を射たりすることは上手です。
戰爭の時になりますと蒙古人は一人で澤山の馬を連れます。平均十八頭位連れます。乘るのは一時に十八頭に乘るのではない。一頭に乘つて疲れれば代へる。ですから速力は他國人の想像することの出來ない程早いです。敵を襲撃したりするに頗る都合がよい。それから前に申した通り蒙古人は極めて物を少量しか食ひませぬから是れが戰爭のとき非常に都合が好いのであります。のみならずどんな物でも食ふのですから是れは尚更戰爭中には都合が好いのです。
前に言ひました所のプラノ・カルピニといふ人の記録によると、蒙古人は毎朝稗の粉に水を混ぜた物を一杯飮んで、一日を過ごす。稗の粉に水を混ぜて、それを一杯飮んで、もうそれで一日何にも食はない。とても外國人では想像することの出來ない程小食である。一日や二日必要に應じて何にも食はずとも平氣である。二日位絶食しても決して何とも言はない。鼻歌を唄つて平生の通りで嬉々として居るといふことです。蒙古人は戰爭中殊に敵を追撃する場合、例へば先般の奉天方面の追撃とか、さういふ場合には何にも持たずに飛ぶです。それから空腹になると自分の乘つて居る馬から降りて馬足を刺絡します。馬は非常に駈けて十分充血して居ります故に、其馬の足の血を啜つて其上へ乘つて十日位そんな風にして戰爭に從事するです。からして兵站部が後ろの騎兵に襲はれたから何うとか斯うとかいふやうな戰術の發達した今日の贅澤な兵と同一には出來ない。騎馬は上手であるし、途中で飯がなくても今のやうな方法でやりますからそれは非常な速力です。それから愈※[#二の字点、1−2−22]戰爭といふことになりますると、蒙古人は必ず冬を選ぶです。秋から冬春の初めまで掛けてが蒙古人の戰爭時期です。夏の間は決して戰爭しませぬ。夏の間は休戰の時期です、其理由はいろいろある。一體蒙古人は馬へ乘つて戰ひますから馬は夏の間草の茂つたときに十分休息をさせるです。馬の肥ゆるのは秋に限つて居ります。是れは蒙古に限つたことではなく、匈奴以來すべて北狄といふものが支那へ入つて來るのは秋に限りますから支那人は北狄の侵入を防ぐことを防秋と書く位です。秋の初めになりますると馬が肥えますから其時を利用するです。それが冬に戰爭をする理由の一つ。もう一つは蒙古人は暑氣を非常に厭ふ。それが第二の理由。それからもう一つは冬は五穀などの收穫を終つたときで何處の國でも一番百姓の富んで居る時であるから其の時に行くと一番掠奪品が多い。夏の頃に行くと丁度前年の收穫の盡きんとする時で十分の掠奪が出來ませぬから必ず冬を見掛けて行く。さうすると掠奪品が多いので利益の點から冬を撰ぶ。もう一つは冬だと云ふと一面に土地河水が氷結するから道路が惡くとも亦河があつても橋を架ける必要がない。蒙古人は水に對しては甚だ意氣地がない。それが一面の氷になると働ける。夏は水になりますから蒙古人は困るです。水は蒙古人は非常に困るです。だから冬だといふと橋などを態※[#二の字点、1−2−22]架けずとも自然の氷の橋が架りますから、運動には極めて宜い。それからもう一つは冬でありますと草木が皆枯れて展望が宜いです。蒙古人は何れ他國へ侵入するのですから草木が茂つて居ると思はぬ所からどんと襲はれる。冬だと草木が枯れて十分展望が出來ますから、さうすると知らぬ他國へ行つても伏兵に襲はれる氣遣ひはないです。それであるからさういふ點より冬を撰びます。
さてその次には何んな軍隊の組織かといふと、蒙古の軍隊の組織は十人長、百人長、千人長、一萬人長といふ風にして十進法で十人に一組長を置き、百人に一組長を置く、千人に一つ、萬人に一つ。それから各兵の持つて居る武器は無論弓矢を第一とします。蒙古兵の戰場へ行く時は必ず一人毎に弓二張、矢は箙に三杯だけ持つて行く。其外には鑢を用ゐます。鑢は何にするかといふと鏃《やじり》などの損んだときにそれを研いだり、或は武器の損じたときにそれを研ぐ。それから篩を持つて行きます。其篩は他國へ行つて、水の惡い所では泥水を掬つて泥を取つて後の水を飮む爲に、即ち水漉の用に供する爲に、其篩を持つて行きます。それから鍵繩を持つて居ります。鍵繩は城へ登るとき必要でありますから持つて居る。それから團隊として天幕を持つて居ります。其外には皮の袋を持つて居る。此皮の袋といふのが種々な場合に必要があるのです。それから石を投げる器械。支那人は※[#「石+駮」、第3水準1−89−16]といふ字を用ゐますが日本の撥釣瓶《はねつるべ》みたやうな仕掛けで大きな石をそれで撥て、城の所へどんと石を投げる。今日で言ふ攻城砲の代りに石を投げる器械、即ち※[#「石+駮」、第3水準1−89−16]を持つて居る。それからもう一つは石油を投げる。石油の壺を投げる器械があります。今日で言つたら爆裂彈の代りです。石油を一杯詰めて城の中へ投げる。さうすると向ふへ行つてぽんと彈くです。それを持つて居りますし、それから石を入れる袋を持つて居ります。是れは城の隍《ほり》を埋める時に用ゐます。其外に廣い梯子を用意します。それだけは大抵持つて居ります。
愈※[#二の字点、1−2−22]戰爭を開始するときには大臣會議(蒙古人のいふクリルタイ Kuriltai)を開きます。それには蒙古の王族、大臣、それから各部屬の長などが皆集ります。夫れに依て今度は何處の國を征伐すべきか、其國を征伐するに付ては何時頃から出立して、どういふ手段を取るか又軍隊の分け方、何人程兵を繰出すとか、總大將は誰かといふ其他一切の事を、クリルタイで定めます。それが愈※[#二の字点、1−2−22]定りますと云ふと出陣する。それから討つ所が定まりますと、殆ど蒙古の習慣として先づ自分の討たんとする國へ使者を派出して降參を勸める。其方は斯く斯くの不都合があるから吾々が征伐しやうと思ふが、潔く降參をしろと勸告する。降參に潔くもない筈です(笑聲起る)。それが第二の順序であります。第三番目には愈※[#二の字点、1−2−22]降參をする、仰せの通り承知を致した、降參を潔く致すと云ふと、さうすると相當な金穀を納めさす。貴樣の所は人口是れ程あつて盛んな所であるから、それに應じて何萬圓出せとか、幾千の家畜を出せと云つて、必ず出すべきだけの財産を命ずる。若しも先方が勸誘に應ぜず、又は此方から命じた財産を納めぬと、始めて其處を討ちに行
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