く。それからして愈※[#二の字点、1−2−22]先方と戰爭をする時分には、僞つて逃げて伏兵に陷らしめるのが蒙古人慣用の手段であります。一番に逃げる、先方が追駈けて來るのを伏兵で陷れる。敵が苦しき經驗を嘗めて後には蒙古人が逃げても追駈けるなといふことになりますると、蒙古人は成るたけ先方を怒らせ、さうして其城兵をおびき出す工夫をする。併しどうしても先方がこの計略に乘らずして、城に皆楯籠つて居るときには愈※[#二の字点、1−2−22]前に申した※[#「石+駮」、第3水準1−89−16]を使つて石を投るです。平地から投つても城の壁が高いから旨く往かぬ故に、大抵城と同じ高さの築山を拵へます。其上へ※[#「石+駮」、第3水準1−89−16]を置いて、さうして城の中へ石を投込む。百貫位の石を投《はふ》ります。頭の上から百貫位の石が落て來ると隨分困る(笑聲起る)。四人位掛らなければ動かせない石を投るです。此石を投るのは城中の兵士を損める目的よりも城の壁を破壞するのが目的であります。けれども石がさう何處にでもある譯ではありませぬから、石がなければ其地方の墓の石とか、挽臼とかいふ物を引張り出して來たりする。愈※[#二の字点、1−2−22]石がなければ木の丸太を水へ漬けて置いて泥などで重くして彈くです。かくして城の壁を破つてそれから前に言ひました石嚢へ砂や小石を入れて城の濠を埋めて、大抵城の濠が埋つた時分に※[#「石+駮」、第3水準1−89−16]に依つて城の壁が崩れた所へ突進するです。もしも猶ほ壁が破れなければ、前に言つた梯子を用ゐることもあるし、又は鍵繩で登ることもあります。それでも往かぬと前に言つた石油を器へ入れて火を點けて敵の中へ投込みます。それで敵を狼狽さして其間に乘じて突進するのであります。さて愈※[#二の字点、1−2−22]さういふことで敵の城を陷れたときは、先づ第一其城へ楯籠つた中から美術家と職工――大工とか左官――其美術家と職工だけは先づ救出します。蒙古人は美術家と職工を非常に大切に致しますから外のものは皆殺してもこれだけは助けます。それは助けて矢張り分捕品として皆に分けて遣る。貴樣の所には美術家が七人大工が五人といふ風に分けて遣る。天子の所有になるのは蒙古へやつて仕舞ひます。それから其次には身體の屈竟な戰爭にも使へるし總ての工事に使へるといふやうな若い奴を引張り出してそれを捕虜にして、それから此次の城を討ちに行く時に使用します。何時でも蒙古人は何處かの城を討たうといふときは、先の一番近傍の城で捕虜にした奴を前列の先鋒に置くのです。向ふの奴は困る。自分の所へ敵が來た、そらと云うて一同武器をとつて見るとかねて昵懇の味方の奴が前列に出て來て憫れな風をして居るからどうしても城から十分材木を投たりする勇氣が鈍るです。蒙古兵は先鋒にはつい近傍で捕虜にした若い奴を使つて、前に申す通り※[#「石+駮」、第3水準1−89−16]を置く築山をこしらへるとか敵陣に接近しての土木工事、危險なことは皆捕虜にさす。蒙古人自身は危險少なき後方で先鋒の者は退却しては往けないなどいうて監督ばかりして危險な所へは寄りつかない。捕虜となつて働かされて居る奴は退却すると殺すと云ふので、何方にしても殺されるからまあ些《ちつ》とでも働いて活かして貰はうといふので働く。城の方を守つて居る人は愈※[#二の字点、1−2−22]困る。憎い蒙古人なら殺して見たいけれども、影も形も見えなくつて、一番危險な目前に居る奴は同國人とか隣りの城の親類みたやうな者ばかりでありまするから、非常に張合がない。だから日本でも俘虜が七八萬も來ましたから、些《ちつ》とは蒙古人流を試みるのも宜いかも知れない(笑聲起る)。それからして蒙古人は酷いです。愈※[#二の字点、1−2−22]目的の城を陷れて此處で新たに俘虜が出來ますと前にこき使をした捕虜は皆殺して仕舞ひます。一體蒙古の兵は世界をあの通り征服しましたけれども、蒙古は今でも人口は少いから其時分でも多くはない。其時分戰爭へ出られる人は三十萬餘ですから、それを無暗に戰鬪線へ出して殺しては世界を征伐することが出來ない。だから先鋒へ俘虜を出して使役し、新たに捕虜が出來ると前の捕虜を殺す。それは屈竟な奴を殘して置くと謀叛を起す危險があり、さらばとて十分監督するには人數を要する譯ですから用がなくなれば敵人は皆殺して仕舞ひます。殺して仕舞へば監督の兵を置く必要がないから、それから其新たに取つた俘虜を又土木工事に使つて又更に俘虜が出來ると前に使つた俘虜を殺して仕舞ふ。
 歐洲征伐の時蒙古兵はハンガリーを攻めたことがありますが、其時は秋の頃で四方を見ると五穀がよく實つて居る。それに住民は蒙古兵が來たと云うて山へ逃げたですから、是は困つたと云うて布令を出した。山へ逃げ込んだハンガリー人が村に歸つたものは決して殺しはしないといふ布令を出しましたから、ハンガリー人は本當かと思つて歸つて來ると、貴樣達は寶が地面一杯にあるのに收入《とりいれ》ぬといふは馬鹿なことなり、蒙古人は決して掠奪せぬから刈入れをせよといふから、ハンガリー人は喜んで刈入れをしたが、刈入れて仕舞つた時分に皆を集めて殺して、それから收穫せし穀物を取つたといふことがあります。それから愈※[#二の字点、1−2−22]城が陷りました後には其處の住民の人數を調べるといふ口實の下で、必ず住民一同を郊外へ出す、武器は無論のこと匙一本でも持たさない、殆ど空手で郊外へ列ばす。さうして其後へ蒙古兵が入つて七日なり十日なりの間掠奪する。皆外へ出してあるから一人も抵抗する者はありませぬ。それから一切の掠奪品を分捕品係り長の所へ持つて行くと、分捕局で計算して前に申したやうに按分比例に依て分つ(笑聲起る)。愈※[#二の字点、1−2−22]分捕りが濟みますると住民は城へ歸ることを許しますけれども、歸つた所で殆んど家だけがあるばかりで家財は何にも無くなつて仕舞つて居る。分捕りが濟んだときには住民の歸ることを許しますが、併し此地方の奴は危險であるから一旦歸つても後に謀叛をするだらうといふ心配があると郊外へ出した序に住民を殺して仕舞ふ。それですから花剌子模《ホラヅム》といふ國の舊都であつた所の玉龍傑赤《ウルゲンヂ》では二百四十萬の人を殺したと言ひます。是れはマホメット教徒の記録に見えて居るのでありますが、少しは誇張がありませうけれども餘程殺したには相違ない。又ヘラットといふ所があります。是れはロシアと英國との境界問題で有名な所でありますが、此ヘラットでも百六十萬の住民があつたのを其内十六人だけ殘して外は皆討斬つて仕舞つたといふ。隨分殺します。恰も草を薙倒すが如く斬ります。世界の人を虐殺したことの多きことは蒙古人の右に出るものはありますまい。
 以上は住民の事ですが、戰場で蒙古の兵が敵兵を斬りまして日本なら首を斬る時に首を斬らずに左の耳を切ります。首は五十人も三十人も殺すと持ち運ぶのに困りますから、首は是れだけで人間の身體の三分の一近くの重量があるとかいひますから、持ち運びに困るです。それですから左の耳を切る。自分の手柄の代りに殺して仕舞つた奴の左の耳を斬つて、それを君の前へ持つて行つて何人殺しました、耳の數は是れだけと言つて耳を列べる。耳を揃へて返すなどは其處から出たものだらうと思ふ(笑聲起る)。併し果して然るや否やは私は保證する限りでない。蒙古人が南ロシアの南方を征伐した間に斬つた耳の數が二十七萬、それからシレジアといふ其地方では切り取つた耳の數が大きな九個の皮の嚢に一杯になつて這入り切らなんだといふ話があります、終にのぞんでもう一つ殘したことがありますから申しませう。
 蒙古人は戰爭は強いですが、一つ弱いことは水の上で戰ふことです。是れは蒙古人だけではない、總て北狄は水に熟ぬから水戰は弱いです。蒙古人は船はありませぬから水に遇ふと困る。河などを渡るときにはどうしますかと云ふと、前に申しました皮の嚢がある。それは軍用品を入て置くのでありますが、それから中の物を出して皮の嚢を浮べて其上へ乘つて渡る。さうでなければ馬を泳がして馬の尻尾をしつかり掴んで向岸へ渡る。そんな仕末ですから海を控へてどんどん戰ふといふことになると蒙古人は駄目です。蒙古人は陸上でこそ天下敵なしの勇兵ですけれども、海の上と來ては誠に意氣地がない。其點から云へば日本は海陸共に蒙古兵よりは強いかも知れぬ。海上ではたしかに日本の兵の方が強い。一體この水に弱いといふことは蒙古人ばかりではありませぬが、同じ支那でも南船北馬と言ひまして北支那の人はまるで水上の働きは駄目です。揚子江から南になると水になれて船にも乘ります。夫故に支那人でも北方の方から起つた支那人はまるで水には弱い。今日でも支那人の海軍を志願するのは揚子江以南の者が多い。三國志などを見ても分りますが、赤壁の戰で魏の曹操が八十萬の兵を率ゐ、呉の周瑜が三萬を率ゐたとか云ふ大きな戰爭ですが、其當時天下第一の智者と言はれた魏の曹操でももともと北方の人ですから水上となると閉口する。揚子江は廣い所は二マイルもあるといふが、何しろ内地を流れて居る河ですから高が知れて居る。それに魏の曹操の軍勢は船へ乘つても船がぐらつくというて怖がつて、とうとう連艦の計とかいふ支那人相當の考を出し、小さい船の澤山あるやつを、此船も此船も鎖で繋ぎつけました。成程船は小さいけれども、皆鎖で繋いであると、大きな船になりますから、所謂大船に乘つた氣で安心して乘りましたが(笑聲起る)、其處を燒討にされましたから逃げる譯に往かない。そんなことで大敗したのです。支那人でもさうですが、所で蒙古人はもう一つ北の方ですから尚更水に付ては弱い。それで蒙古人自身でも陸なら天下敵なしだが、水は宋の人にでも負けると明言して居る。宋は南方の弱い國です、それにも敵はぬと云つて居ります。所がわが弘安の役は其弱い蒙古人が出て來ましたから、たとひ伊勢の神風がなくとも無論彼等は大敗せなければならぬ譯です。弘安の役に來ました敵軍は十四萬人で、支那の方から來たのが十一萬人、それから高麗の方から來たのが三萬でありますから都合十四萬でありますが、其内蒙古人は今申した通り海戰では弱蟲、從軍して來た支那人は蒙古の下に居ることを好まぬ、高麗などは有難迷惑で居りますから、夫等の者どもは十分力を盡す譯はない。其故勝敗の數は初めから分つて居ります。蒙古人は水戰には非常に弱いのであつて、朝鮮と蒙古と戰爭をしたことがありますけれども其時分朝鮮の王樣が朝鮮半島を一寸離れた其處にも見えるといふ位の江華島へ逃込んだので、蒙古の軍隊が其處を三十年も攻めたが降すことが出來なかつたと云ふ位に蒙古兵は水上は弱いです。隨分話が長くなり私も疲れましたから是だけにして置きます。
[#地から3字上げ](明治三十八年六・七・十月『明治學報』所載)



底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2002年3月4日公開
2004年2月20日修正
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