の材料になるのです。一體人の風俗習慣などといふものは時分の國の人は却て書かない。他國人が書くのです。自分では自國の風俗習慣などには深く注意せぬが、外國人から見ると是は奇妙とか彼は新奇とかその注意を惹きて記録する樣になるのです。其故すべて過去つた國民の風俗といふものは其の國の人の記録に待つよりも却て他國人で其地方を見物に行つた、其人の記録の方が何時も參考になるのであります。他國人は極めて細かい所まで注意して居る。此元時代も其通りである。前に申す通り支那人などの記録に依るよりも、却て其時分蒙古地方へ旅行した外國人の紀行が間に合ふのであります。その中にいろいろ澤山ありまするけれども、先づ Plan Carpin 又は Plano Carpini それからもう一つは William of Rubruk 又は Gulielmus de Rubruquis といふのがあります。それから三番目は Marcopolo 有名な人であります。
 一番さきのプラノ・カルピニといふ人は――私のは兔に角六ケ敷いことを言ひますが、併しながら六ケ敷いだけ覺えて置いたら確に後の爲になる(笑聲起る)。このプラノ・カルピニといふ人は千二百四十五年にヨーロッパを發しまして千二百四十七年にヨーロッパへ歸つて來たのであります。丁度足掛け三年の間不在であつたのです。この人はインノセント四世といふローマ法皇の命令を奉じて蒙古へ使者に行つた。此時は蒙古の王樣は成吉思汗の孫の定宗の時です。其時行きまして、さうして西暦の千二百四十六年七月から十一月まで五ヶ月の間蒙古に滯在して居つて、蒙古を見物した。其見物したことをいろいろ記録してあります。歐洲を立つてから歐洲へ歸るまでは三年ですけれども、實際蒙古地方に滯在して蒙古のことを見聞したのは今申した通り西暦千二百四十六年七月から十一月まで、十一月に蒙古を發足して歐洲へ歸つて來ました。
 其次ぎのウヰリアム・ルブルック、此人はフランスのサンルイと云ふ王樣の命令に依て蒙古の方へ行つたのですが、これは成吉思汗の孫で、定宗の次に立つた憲宗の時に行つたのです。此人は今申す通りヨーロッパを出發したのが千二百五十三年で千二百五十五年にヨーロッパへ歸つて來ましたので、矢張り三年掛つて居りますが、此人の蒙古に居つたのは前のプラノ・カルピニよりも少し長くして千二百五十三年の十二月から翌年即ち千
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