ことを稽古しますからして七八歳になつたならばなかなか恐しいものです。蒙古の太祖成吉思汗の西域征伐から歸つて來まして今のアルタイ山の附近に葉迷爾《エミール》といふ河がありますが、小さな河ですが、其河へ來た所が其頃まだ子供であつた世祖|忽必烈《フビライ》と其弟で後にペルシアの王樣になりました旭烈兀《フラグ》が祖父の成吉思汗を迎に參つたが、其の時世祖は十一歳、旭烈兀は八歳と思ひますが、其十一歳と八歳の子供が祖父さんの西域から歸るのを迎ひに行つて土産に途中で狩りをしまして、八歳の旭烈兀が鹿を射留めますし、十一歳の世祖は兔を射落して祖父さんから賞められたといふ話がありますが、なかなか日本の人では八歳やそこらで鹿を殺したり、素早い兔を殺したりすることは容易に出來ないが、蒙古人は狩りなどは上手です。隨つて馬に乘つて弓を射たりすることは上手です。
 戰爭の時になりますと蒙古人は一人で澤山の馬を連れます。平均十八頭位連れます。乘るのは一時に十八頭に乘るのではない。一頭に乘つて疲れれば代へる。ですから速力は他國人の想像することの出來ない程早いです。敵を襲撃したりするに頗る都合がよい。それから前に申した通り蒙古人は極めて物を少量しか食ひませぬから是れが戰爭のとき非常に都合が好いのであります。のみならずどんな物でも食ふのですから是れは尚更戰爭中には都合が好いのです。
 前に言ひました所のプラノ・カルピニといふ人の記録によると、蒙古人は毎朝稗の粉に水を混ぜた物を一杯飮んで、一日を過ごす。稗の粉に水を混ぜて、それを一杯飮んで、もうそれで一日何にも食はない。とても外國人では想像することの出來ない程小食である。一日や二日必要に應じて何にも食はずとも平氣である。二日位絶食しても決して何とも言はない。鼻歌を唄つて平生の通りで嬉々として居るといふことです。蒙古人は戰爭中殊に敵を追撃する場合、例へば先般の奉天方面の追撃とか、さういふ場合には何にも持たずに飛ぶです。それから空腹になると自分の乘つて居る馬から降りて馬足を刺絡します。馬は非常に駈けて十分充血して居ります故に、其馬の足の血を啜つて其上へ乘つて十日位そんな風にして戰爭に從事するです。からして兵站部が後ろの騎兵に襲はれたから何うとか斯うとかいふやうな戰術の發達した今日の贅澤な兵と同一には出來ない。騎馬は上手であるし、途中で飯がなくても今のやうな方法で
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