庚の事蹟を調査するのに、彼の血統のことを傳へた第一の古い材料は、南宋の遺民の鄭所南の『心史』である。鄭所南は福建の人で、蒲壽庚と同時代の人である。この人は生涯元朝に反抗した人で、その詩文にも徹頭徹尾種族的排外思想を鼓吹してあるから、當時の官憲を憚り、之を鐵函に藏して、井中に埋沒して置いたのが、明末の崇禎十一年(西暦一六三八)になつて、世間に現れて來た。清朝時代には禁書となつて居つたが、その末期には支那志士の間に愛讀されて、種族革命説にかなり大なる影響を與へて居る。
右の如き來歴の書物であるから、學者の中には『心史』の眞僞に就いて、疑を挾む者も尠くない。甚しきはその僞作たることを斷言した人もある。併し吾が輩がその内容に就いて研究した所では、僞作とは認め難い。當時の史料として、十分參考に供し得べき價値あるものと思ふ。
鄭所南の『心史』には、蒲壽庚を蒲受畊に作つて、その祖は南蕃人なりと記してある。明末の何喬遠の『※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]書』には、蒲壽庚の事蹟を一番詳細に記載してあるが、それには彼の祖先を西域人と認めて居る。或は南蕃人といひ、或は西域人といふ。何れにしても蒲壽庚は、もと外國産であるべきは疑を容れぬ。
吾が輩は更に彼の姓を蒲と稱する點から推測して、蒲壽庚は蓋しアラブ人即ちイスラム教徒であらうと斷定する。支那の記録に見えて居る外國人の姓に蒲とあるのは、アラブ人の名乘に普通な、Abu (Abou) の音を表はしたものであらうといふ説は、今より二十餘年前に、ドイツのヒルト氏の唱へ出した所であるが、吾が輩はこの蒲壽庚の蒲も同樣と認めたい。アラブ人ならば、南蕃人と稱しても、西域人と稱しても、事實少しも差支ないのである。
『宋史』の外國傳の大食國の條を見ると、當時大食から宋の朝廷に來貢した使者に、蒲といふ姓を稱する者が甚だ多い。試みにその四五を擧げると、
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太祖開寶九年(西暦九七六) 蒲希密 Abu Hamid ?
太宗太平興國二年(西暦九七七) 蒲思那 〔Abu Si^na ?〕
太宗至道元年(西暦九九五) 蒲押※[#「施」の「方」に変えて「こざと」、第4水準2−91−67]黎 Abu Adil ?
眞宗景徳元年(西暦一〇〇四) 蒲加心 Abu Kashim ?
眞宗天禧三年(西暦一〇一九) 蒲麻勿※[#「施」の「方」に変えて「こざと」、第4水準2−91−67]婆離 Abu Mahmud Dawal ?
仁宗嘉祐中(西暦一〇五六―一〇六三) 蒲沙乙 Abu Said ?
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アラブ人は已に述べた通り、唐の中世以後南洋を經て、盛んに支那に通商を營んだ。從つて南洋の樞要の地には、アラブ人の假寓したものが多かつた。中にも室利佛逝 〔C,ri^bho^dja〕 國は、東西兩洋の中間に在つて、當時貿易の繁昌した所で、アラブ人は之を訛つて Sarbaza 又は Serboza とも稱した。支那の記録に三佛齊とあるのは、この Sarbaza 又は Serboza の音譯らしい。南宋の趙汝※[#「しんにょう+舌」、第4水準2−89−87]の『諸蕃志』に、この國のことを記して、國人多[#二]姓蒲[#一]とあるのは、當時この國に假寓したアラブ商人のことを指した樣に想はれる。
占城即ち占婆 Champa にも、アラブ商人が多く假寓して居つた樣である。占婆はアラブ人に Senf (Sanf) として知られて居る。Senf は勿論 Champa の音を訛つたものである。『宋史』外國傳に據ると、五代の周の世宗の顯徳年間(西暦九五四―九五九)に、占城國の使者※[#「艸かんむり/甫」、第3水準1−90−86]訶散といふ者が、薔薇水を獻上して居る。薔薇水は大食國殊にペルシア灣沿岸地の特産で、占城の産物ではない。※[#「艸かんむり/甫」、第3水準1−90−86]訶散の名もアラブ人で、Abul Hassan の音譯らしい。※[#「艸かんむり/甫」、第3水準1−90−86]訶散の外に、宋時代にこの國から支那に來貢した使者の名に、アラブ人らしいのが尠くない。
支那の南方の門戸に當る海南島にも、後くも、宋元時代に、アラブ商人、然らずともイスラム教徒が、かなり移住して居つた樣子で、兔に角この住民にも、蒲姓の人が尠からざる事實がある。
さて本題の蒲壽庚に立ち返つて、彼の祖先のことは已に紹介した通り明末に出來た『※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]書』の中に、尤も詳細に見えて居る。その記事に據ると、彼の祖先はもと廣州に住居して所謂蕃長の職を務め、大なる資産をもつて居つた樣である。鄭所南の『心史』には、蒲受畊(蒲壽庚)の祖は、兩廣第一の富豪であつたと記載してある。この蒲壽庚の祖先が、もと廣東に僑居して、大なる資産を有して居つたといふ事實は、端なくも、南宋の岳珂の『※[#「木+呈」、129−11]史』に在る、廣州の蒲姓の記事を想起せしむる。
この岳珂は岳霖の子で、有名なる岳飛の孫に當る。南宋の光宗の紹煕三年(西暦一一九二)父の岳霖が廣州の知事として赴任した時、彼もその地に同行して、廣州滯在の蒲姓とも親しく往來し、その親覩した所を『※[#「木+呈」、129−14]史』の中に記載して居る。左にその大要を紹介いたさう。
廣州城内に雜居して居る幾多の海※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、129−16]の中で、最も富豪を以て聞えたのは蒲姓の人である。彼はもと占城の貴人であるが、中國に滯留して、その國の貿易事務を管掌することとなつた。年月を經る儘に、廣州城内に宏大壯麗なる邸宅を構へた。支那人ならば、當然官憲から譴責を受くる程の贅澤を盡したが、外國人でもあり、且つは盛んに互市を營んで、國庫の歳入にも關係を及ぼす人のこととて、支那の官吏は遠慮して、之を不問に置いた。この蒲姓の風習として、特に注意すべきことは(一)清淨を尚ぶこと、(二)殿堂を設けて禮拜祈福するけれど、決して偶像を設けぬこと、(三)食事する際には、必ず一方の手のみを使用して、他の一方の手は便用の時に使用する外決して食事に使用せぬこと、(四)その使用する文字は異樣で、中國の篆書、籀文の如き形をなして居ることである。
以上岳珂の記した所に據ると、蒲姓の風習は頗るイスラム教徒のそれと類似して居る。廣州滯留の蒲姓はアラブ商人に相違あるまいと思ふ。※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130−7]はもと南夷(西南夷)の一種であるが、當時南洋方面より海上支那に交通した外國商人を、一般に海※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130−8]とも舶※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130−8]とも稱した。アラブ商人も勿論海※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130−8]と稱して差支ない。廣州の蒲姓と同時に、福建の泉州に居つて、巨萬の富を擁した舶※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130−9]に、尸羅圍といふのがある。その名から推して、この舶※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130−9]はペルシア灣頭 〔Si^ra^f〕 の産の蕃商たること疑を容れぬ。岳珂は蒲姓を占城の人と記して居るが、上に述べた如く、當時占城にアラブ商人の假寓した者が尠くない筈故、この蒲姓ももと占城に僑居したアラブ商人と認むべきであらう。
尚ほ岳珂の傳ふる所に據ると、蒲姓の家宅の後に高大な※[#「穴/卒」、第4水準2−83−16]堵波があつて、その構造樣式は全く普通の佛塔と相違して居る。毎年四五月の交となると、廣州滯在の群※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130−13]がこの塔上に登つて、天に叫呼して南風を祈り、外舶の入境の便利を圖つた。この※[#「穴/卒」、第4水準2−83−16]堵波の絶頂には、もと巨大なる金※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]があつたが、後ち盜難に罹つてその一足を失ひ、爾後一足の儘の金※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]が塔の頂上に在つたといふ。
吾が輩はこの岳珂の記事から推測して、現今廣州城内にある懷聖寺の番塔又は光塔――廣東の一名物である――は、南宋時代の蒲姓の宅後の※[#「穴/卒」、第4水準2−83−16]堵波と關係あるものと認めたい。懷聖寺は普通の傳説では、支那へ始めてイスラム教を將來した斡葛思 〔Wakka^s〕 の建てたものだといふが、勿論信用することが出來ぬ。懷聖寺に在る番塔の構造樣式、さてはその塔上の金※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]など、蒲姓の※[#「穴/卒」、第4水準2−83−16]堵波と、偶然としては餘りの類似である。吾が輩は今の番塔は、宋代の蒲姓の※[#「穴/卒」、第4水準2−83−16]堵波の遺物でないかと想ふ。吾が輩は更に進んで懷聖寺そのものも、或は宋代の蒲姓の建立ではあるまいかと想ふ。
餘談はしばらく措き、兔に角『※[#「木+呈」、131−4]史』に記する所の廣州の蒲姓は、當時廣東第一の富豪で、外國貿易のことを統べて居つた。蒲壽庚の祖先も亦廣州に居つて、諸蕃の互市を統べて兩廣第一の富豪であつた。この事實を對比すると、『※[#「木+呈」、131−6]史』の蒲姓は、蒲壽庚の祖先その人でないかと、想像を容るべき餘地が多い。若しこの想像に從つて、蒲姓を蒲壽庚の祖先と認めるならば、蒲姓は西暦十二世紀末に出で、蒲壽庚は十三世紀の半過ぎの人故、蒲姓は多分蒲壽庚の祖父位に當るべき順序である。
『※[#「木+呈」、131−9]史』の記事に據ると、さしも廣州で豪華を極めた蒲姓も、その後久しからずして、家運傾いたといふことである。蒲壽庚の父の蒲開宗の時、廣州から始めて泉州に移住したのは、或は廣州に於ける蒲姓の衰運と關係ある樣に想像される。
四 蒲壽庚の事歴(上)
蒲壽庚の一家は、その父蒲開宗の時代に、廣州から泉州に移住したが、最初の間は左程豐かな生活を營んだものと想像出來ぬ。所が蒲壽庚の時代に南海名物の海賊が、泉州を襲うて掠奪をやつたことがある。大膽なる蒲壽庚はその兄の蒲壽※[#「宀/成」、第4水準2−8−2]と協力し、支那官憲を助けて見事にこの海賊を撃退した。これが彼の出世の端緒で、宋の朝廷に登庸されて、遂に泉州の提擧市舶となつた。
『※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]書』を始め支那の記録には、多くこの蒲壽庚の海寇撃退の事實を、南宋の度宗の咸淳十年(西暦一二七四)の頃の出來事と記してあるが、咸淳十年といへば、元の伯顏が宋の行在の臨安府を陷れる僅か二年前に當る。『宋史』瀛國公本紀の景炎元年(西暦一二七六)十一月の條に、
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蒲壽庚提[#二]擧泉州舶司[#一]。擅[#二]蕃舶利[#一]者三十年。
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と明記してある。果して蒲壽庚が海寇撃退の功によつて、提擧市舶となつたものならば、そは景炎元年より約三十年前の理宗の淳祐年間(西暦一二四一―一二五二)でなければならぬ。諸書に咸淳十年とあるのは、或は淳祐十年(西暦一二五〇)の間違ひではあるまいか。然らずば、海寇撃退の事件以前から蒲壽庚は早く提擧市舶の職に在つたものと認めねばならぬ。『重纂福建通志』卷九十に、泉州の歴代の提擧市舶を列載してゐるが、淳祐の末年以後の提擧市舶としては、蒲壽庚一人を掲ぐるにすぎぬ。蒲壽庚一人が淳祐以後宋末まで、久しく提擧市舶の職に在つたことを、保證する樣に思はれる。
提擧市舶は蕃商即ち外國の貿易商人との交渉に當るから、種々役徳が多い。唐時代から、外國の商舶が支那沿海の埠頭へ入港すると、所定の下碇税と稱する關税を納めるは勿論、別に皇室へ舶來の珍異を獻上する。これを進奉といふ。皇室獻上の進奉以外に、地方の關係官吏にも相當の心附が行き屆く。即ち呈樣とて、蕃商が新たに輸入する物貨の一部を、見本といふ名義の下に、地方官憲に送呈するのである。また禁制品や逋税を取締る爲に、官憲がその輸入物貨を檢閲する。
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