蒲壽庚の事蹟
桑原隲藏

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(例)地理學者 Ibn《イブン》

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  本論

   一 大食人の通商

 西暦八世紀の初頃から、十五世紀の末に、ヨーロッパ人が東洋に來航する頃まで、約八百年の間は、アラブ人が世界の通商貿易の舞臺に立つて、尤も活躍した時代で、殊に西暦八世紀の後半に、〔Abba^s〕 王朝が縛達 〔Baghda^d〕 に都を奠めて以來、彼等は海上から印度や支那方面の通商に尤も力を注いだ。
 アラブ人はペルシア灣から印度洋を經、マライ半島を廻つて、今日の廣東へ來て、盛んに通商を營んだ。廣東をその當時のアラブ人は、Khanfou (Khanfu)  と呼んだ。Khanfou とは廣府の音譯である。今日の廣東は唐時代に、廣州とも廣府とも呼ばれた。『舊唐書』『唐六典』を始め、當時の公私の記録に廣府といふ名稱が疊見して居る。
 この廣州の外、嶺南の交州、江南の揚州、福建の泉州にも唐時代からアラブ人が通商を開いて居つた。西暦九世紀の半頃のアラブ地理學者 Ibn《イブン》 〔Khorda^dbeh〕《コルダードベー》 の著書に、支那の貿易港を南から順次に數へて、〔Louki^n〕《ルウキーン》 (al Wakin), Khanfou, Djanfou《ジヤンフウ》, Kantou《カンツウ》 (Kansu) と記載してあるが、この 〔Louki^n〕 は交州、Djanfou は泉州、Kantou は揚州を指したものと思はれる。併し此等諸貿易港の中で、勿論廣州が第一に繁昌を極めた。その有樣は今日でも東西の史料によつて、かなり詳細に知ることが出來る。
 アラブ人の支那通商は、その間に多少の盛衰や、一時の斷絶はあつても、大體から見渡して、唐から五代を經て、宋に至るまで、格別の變化なく繼續した。否宋代となると、アラブ人の通商は一層盛大を極め、又それに關係ある支那方面の記録材料も一層多く傳はつて居る。
 宋は最初廣州、明州(浙江)、杭州(浙江)を外國貿易港に指定して、ここに市舶司を置いて、關税徴收を始め、外國貿易に關する一切の事務を管理した。當時この三貿易港の市舶司を略して、三司ともいうた。併し北宋時代の關税收入の有樣を檢べると、廣州の一港で全關税の十分の九以上を占めて居るから、唐時代と同樣に、北宋時代でも、矢張り廣州の貿易が特に繁昌を極めた事實がわかる。
 所が北宋の末から南宋にかけて、福建の泉州が外國貿易港として、次第に隆盛に赴いて來た。泉州に市舶司の開かれた年代は、多少異説があつても、先づ北宋の哲宗の元祐二年(西暦一〇八七)となつて居るが、事實としては、既に北宋の初期から、外國の貿易船がかなり盛んに泉州へ入港して居る。そは兔に角、泉州が開港されると、泉州は宋時代には福建路に屬し、廣州は廣南東路に、杭州、明州は倶に兩浙路に屬したから、當時これらの諸港の市舶司を總括して、三路市舶司と稱した。
 泉州の開港後四十年許を經ると、宋が南渡して杭州が南宋一代の行在となつた。中世の外國人達が杭州を指して、Khinzai《キンザイ》 又は Khanzai《カンザイ》 と稱するのは、この行在を訛つたものと見える。杭州は南宋時代を通じて支那第一の大都會として尤も繁昌を極めた。かくて杭州に近き泉州は、地の利を占めた上に、南宋時代を通じて、支那政府は國庫の收入を増加せんが爲に、頻りに外蕃の通商を奬勵したから、泉州の貿易は年一年と長足の發展をして、廣州と頡頏して讓らざる位置に立ち、更に南宋末から元時代にかけて、泉州の勢力は遂に廣州をも凌駕するに至つた。當時支那から海外に出掛ける貿易船、海外から支那に入り來る貿易船は皆泉州に輻輳した。元時代に泉州を觀光した Marco Polo や 〔Ibn Batu^ta〕 は、何れも泉州を當時世界無二の大貿易港と稱して居る。
 泉州は宋末や元時代のアラブ人、その他の西方外國人に、Zayton《ザイトン》,  〔Zaytu^n〕《ザイツーン》 又は Zeytoun《ゼイツウン》 等と呼ばれた。この稱呼の起源は、五代の半頃に泉州を管領した留從效といふ者が、泉州城を改築した際に、城壁の四周に刺桐樹を植ゑ付けたから、泉州城はその後、刺桐城とも、桐城とも、呼ばるることとなつた。アラブ人はこの刺桐城をその儘に、〔Me'dinet〕《メジネー》 Zeytoun《ゼイツウン》 といひ、或は城市の意味に當る 〔Me'dinet〕 を略して、單に Zeytoun と呼んだのである。

  二 支那居留の大食商賈

 宋時代に支那に通商したアラブ人が、支那の開港埠に於ける生活状態を一瞥すると、彼等は事實としては、時に城内に支那人と雜居したこともあるが、原則としては一定の居留地をもつて、ここに住居して居つた。當時この居留地を蕃坊と呼んだ。蕃坊とは蕃人の住居する坊市の義である。泉州の居留地は州城の南に在つて、普通に之を泉南と稱した。泉南は晉江の流に臨んで、海上交通の便利多かつた故、ここに居留地が設けられたことと想像される。廣州の方も同樣で、珠江の流に臨んだ方面に、蕃客の居留地が在つた樣に想ふ。
 この居留地を取締る爲に、蕃長司といふ役所が設けられ、そこに都蕃長又は蕃長が居つて事務を管理した。この都蕃長又は蕃長は、在留蕃客の中に就いて尤も徳望ある者を選んで、支那政府から任命したことと見える。彼等は蕃坊の取締りに任ずる外、又支那政府の爲に、海外の蕃商を招徠することに努力した。
 宋時代には支那政府は概して蕃客の通商を奬勵した。自然在留蕃商を優遇して、たとひ彼等に多少の犯則非法の行爲があつても、大抵は不問に看過した。在留蕃商同志の間に起る犯罪は、唐時代から彼等本國の法律によつて處分し、支那官憲は干渉せぬのを原則としたが、宋時代には一層この範圍を擴めて、蕃商と支那人との間に起る犯罪でも、重大事件にあらざる限り、成るべく彼等の法律によつて處分することにした。
 北宋末の朱※[#「或」の「丿」に変えて「彡」、第3水準1−84−30]の作つた『萍洲可談』に據ると、在留外國人が徒刑以上の重罪を犯せば、支那官吏の手で裁決し、それ以下の輕罪は蕃坊に送つて、蕃長自身の裁斷に一任したとあるが『宋史』の列傳などを見ると、宋時代に支那在留の外國商人が『萍洲可談』の記事以上の特典を受け、一種の治外法權をもつて居つたことを疑ふことが出來ぬ。
 宋時代に、支那の沿岸諸港に來寓した蕃商即ち外國商人は、主としてイスラム教徒と見え、決して豚肉を食用せぬ。彼等は皆巨萬の富を擁して衣食住に贅澤の限りを盡したことは、仔細に當時の記録に傳はつて居る。開港地の地方官は、時に彼等の出資に頼つて城普請を行ひ、又は警備艦を作つたことがある。
 蕃坊即ち外國人の居留地には、勿論イスラム教徒の婦人も滯在して居つたが、當時これを波斯婦とも、菩薩蠻ともいふた。菩薩蠻とはイスラム教徒を指す所の Mussulman《ムツスルマン》 又はそれを訛つた Bussurman《ブツスルマン》 の音譯である。菩薩蠻は唐時代から樂府の題目となつて居るが、この唐時代の菩薩蠻が、果してイスラム教徒の婦人を指したものであるや否やは、大なる疑問であるから、しばらく之を措き、北宋の末頃には、廣州地方でイスラム教徒の婦人をも、菩薩蠻と稱したことだけは事實である。波斯婦とは、當時蕃坊に來寓したイスラム教徒は、多く波斯灣附近の商人であつた故と想像される。五代の時南漢主劉※[#「金+長」、第4水準2−91−3]が波斯女を寵愛して政事を荒廢したのは、恐らく當時廣州に來寓した波斯女を後宮に納れた者であらう。
 蕃坊在留の外國人で、支那婦人を迎へて愛妾としたものも尠くない樣である。『萍洲可談』に據ると、北宋の末に、廣東在留のアラブ人で劉姓の人が、宗室の女を娶つて左班殿直といふ官職に就いたことがあり、また『宋會要』に據ると、南宋の初に、廣東在住の右武大夫の曾訥が、アラブ商人の蒲亞里(Abu Ali ?)といふ者の財力豐富なるを利として、この人にその妹を嫁せしめたことがある。元時代に東方を觀光した西人の記録に據つても、この事實を確めることが出來る。此等在留外國人の中には、又支那の學問を修め、更に進んで科擧に應じた者さへある。
 支那へ往來する外國の貿易船を、支那人は普通に市舶又は互市舶と呼んだが、また、
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南海舶(『唐國史補』卷下)
番舶(『新唐書』卷百六十三孔巣父傳)
西南夷舶(『新唐書』卷百三十一李勉傳)
波斯舶(『大唐求法高僧傳』卷下)
崑崙舶(『唐大和上東征傳』)
崑崙乘舶(『舊唐書』卷八十九王方慶傳)
西域舶(『舊唐書』卷百三十一李勉傳)
蠻舶(『舊唐書』卷百七十七盧鈞傳)
海舶(『梁書』卷三十三王僧孺傳)
南蕃海舶(『癸辛雜識』後集)
波羅門舶(『唐大和上東征傳』)
師子國舶(『唐國史補』卷下)
外國舶(『南史』卷五十一梁宗室傳上、蕭勵傳)
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など種々の名稱を附して居る。此等の船は勿論帆船で、航海にかなり時日を要した。大食の商人はその本國と支那との往復に普通二ヶ年を費した。
 支那に往來する外國商人は、勿論その自國船に搭乘した者が多いけれど、又南洋航行の支那船に便乘した者も尠くない。殊に宋元時代にかけて、大食の商人は普通に支那船に便乘した。
 當時南洋航行の支那船の構造設備等は、割合に整頓して居つた。支那船たると外國船たるとを問はず、當時の貿易船はすべて帆船であるから、風を第一の手頼とする。南海から支那へ來るには、西南風の吹く舊暦の四月の末から五、六月の頃で、支那から南海に往くのはその反對に東北風の吹く十月末から十二月の間に限つた。是故に舊暦の五月から十月にかけての半年間が、支那の諸港に在る蕃坊の繁昌期である。
 蕃坊在住の外國商人の多數は、冬期に一旦歸國するが、その儘蕃坊に居殘る者も尠くない。これを住唐といふ。中には五年も十年も歸國せずに蕃坊に永住する者もある。北宋の徽宗の政和四年(西暦一一一四)に、諸外國人の中國に居住すること已に五世を經た者の、遺産處分法を定めて居るのを見ると、その頃五世も引續いて永住した蕃商のあつたことがわかる。かかる永住の外國人が中國にて生んだ子を、當時土生蕃客と稱した。本題の蒲壽庚の如きも、多分この土生蕃客であらうと想像される。

  三 廣州居留の蒲姓

 愈※[#二の字点、1−2−22]本題に入つて蒲壽庚のことを申述べるのであるが、この蒲壽庚といふ人は、もと外國人で、南宋の末期に三十年間も、提擧市舶の職を務めて、巨大なる財産と勢力とを蓄へ、宋元鼎革の際にかなり重要なる關係をもつた人である。併し『宋史』にも『元史』にもその傳を載せてない。清の魏源の『元史新編』の目録には、二十九に平宋功臣列傳があつて、その中に蒲壽庚の名を列してあるけれども、肝心の本文にはその傳が缺けて居る。最近の出版に係る民國の柯劭※[#「文/心」、第3水準1−84−39]氏の『新元史』には、流石にその卷百七十七に、蒲壽庚の傳を收めてあるが、記事は極めて寥々たるもので、その外國人たることに就いては、一言隻句も述べてない。『宋史』殊に『元史』の記事中には、時々蒲壽庚の名が出て來るけれど、全く斷片的で、その人の經歴や血統を闡明すべく甚だ不十分である。從つて東西の學者間にも、この人の事蹟は、今日まで殆んど知られて居らぬ。
 蒲壽
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