之を閲貨とも閲實ともいふ。閲貨を經ねば一切物貨を販賣することが出來ぬ。檢閲後に――多分蕃商等の主催で――慰勞の宴會が開かれる。この時にも臨閲の官吏に尠からざる贈遺がある。蕃商の滯留中に支那の官憲は自然之と往來交際するが、かかる場合には、蕃商から種々心附があり、又時には蕃商の本國から附屆などもあつた。
これらはむしろ公然の役徳と申すべきものである。甚しき者は蕃商輸入の物貨を無理に廉價に買ひ受け之を販賣して私利を營む。蕃商の物貨を強請してその怨を買ひ、命を落した官吏さへあつた。唐宋時代の市舶に就いては、最近に藤田、中村二氏の論文も發表されて居るから、茲に詳細に述べる必要ないかと思ふ。
以上の事情によつて、外國貿易船と關係する官吏は、古來發財致富するものと定まつて居る。『舊唐書』卷百七十七盧鈞傳に、
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南海有[#二]蠻舶之利[#一]。珍貨輻輳。舊帥(節度使)作[#レ]法興[#レ]利以致[#レ]富。凡爲[#二]南海[#一]者。靡[#レ]不[#二]梱載而還[#一]。
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といふ通りである。かかる事實は、唐代より遙か以前から、已に歴史上に散見して居り、宋時代になつても亦同樣であつた。されば貧乏官吏は種々運動して、外國貿易と關係ある南支那に奉職せんことを競爭した程である。三十年も長く提擧市舶の位置を占め、時に或は自分の手で海外通商を營んだかとも疑はるる蒲壽庚の富有は設想するに難くない。
海寇撃退の功によつて出身した蒲壽庚は、南宋の末には福建按撫沿海都制置使に昇進して、尚ほ提擧市舶をも兼ねた。併しこの時宋運は已に傾き、徳祐帝(恭宗)の徳祐二年(西暦一二七六)、即ち元の世祖の至元十三年の春に、元の大將伯顏は遂に南宋の行在臨安府(杭州)を陷れ、徳祐帝を降し、宋は事實上滅亡した。
是に於て宋の遺臣等は、徳祐帝の兄景炎帝(端宗)を奉じ、福建方面に退いて恢復を圖る。蒲壽庚の勢力に依頼する必要から、彼を福建廣東招撫使に進め、兼ねてこの方面の海舶を統領せしめた。やがて景炎帝は元軍を避け、その年の十一月に福州より海路泉州に移つて、蒲壽庚兄弟の後援を期待したが、蒲壽庚は十分にその所望に應ぜぬ。
元軍の方でも東南を平定するに、蒲氏の助力を得るのが、第一の要件であることは夙に承知して、未だ行在の陷落せざる以前に、至元十三年の二月に、元の伯顏は特使を派して、蒲氏兄弟に投降を勸誘して居る。この勸誘に對して、蒲壽庚は如何なる態度を持したかは、記録に傳はつて居らぬが、彼はこの時から幾分二心を抱いた樣に想はれる。殊に船舶や軍資に不足勝なる宋軍は、泉州に於て蒲壽庚所屬の船舶資産を強請的に徴發した故、蒲壽庚は大いに怒つて、その年の十二月に斷然元に降り、宋に對して敵對行動をとることとなつた。
蒲壽庚が宋を捨てて元に歸したことは、宋元の運命消長にかなり大なる影響を及ぼした。元來蒙古軍は陸上の戰鬪こそ、當時天下無敵の有樣であれ、海上の活動は全然無能で、この點に就いては宋軍にすら敵しかねたのである。然るに海上通商のことを管理して、海事に關する智識も邃く、且つ自身に多數の海舶を自由にすることの出來る蒲壽庚が元に降つて、その東南征伐に助力したことは、元にとつては莫大の利益で、同時に宋にとつては無上の打撃であつた。景炎帝は間もなく福建方面を去つて、廣東方面に引移らねばならぬこととなつた。
その翌景炎二年即ち至元十四年(西暦一二七七)の七月に、蒙古軍が福建方面を引き上げたを機會として、宋の張世傑は急に蒲壽庚を泉州に攻めた。泉州は當時南外宗正司の所在地で、宋の宗室が多く茲に住んで居る。此等趙氏の一族の者は、何れも宋室の恢復に心を傾けたこと勿論である。蒲壽庚は一擧にして、泉州在住の宋の宗族を鏖殺して内顧の憂を絶ち、專心に泉州を固守した。張世傑は泉州を圍むこと三ヶ月に亙つて城が拔けぬ。やがて蒲壽庚の請に應じて、蒙古軍の來援すると共に、宋軍は復た廣東方面に退却した。この後約一年半を經て、至元十六年(西暦一二七九)の二月に、張世傑を頭目とせる宋軍は、幼主祥興帝と共に崖山で覆滅して、宋祀は全く絶え、元が天下を統一することとなつた。
兔に角元の東南平定には、蒲壽庚の力預つて多きに居る。故に元の朝廷も最初より彼を厚遇した。先づ昭勇大將軍(正三品)を授け、※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]廣大都督兵馬招討使に任じ、ついで江西行省の參知政事(從二品)となし、至元十五年(西暦一二七八)の八月には、福建行省の中書左丞(正二品)に登庸して居る。
五 蒲壽庚の事歴(下) 蒲壽庚の一族
蒲壽庚はただに元の爲に東南平定の大功を建てたのみでなく、彼は更に南海諸國を招懷して、此等諸國と元との間に互市を開くべく、若干の貢獻を致して居る。
已に述べた如く、唐宋時代から、否その以前から支那と南海諸國間との通商は盛んに行はれて居つた。殊に宋一代を通じて、外國貿易は一層隆盛を極めた。當時支那政府はこの外國貿易によつて、大體二重の利得を收めることが出來た。一は關税の收入で、之は時代によつて相違はあるが、普通輸入品の一割二割位を政府に收めるのである。一はこの關税收入以外に、宋時代から、或種の外國輸入品は一旦政府に買ひ上げ、而して後ち相當の利益を取つて民間に拂ひ下げることで、即ち政府が或種の外國輸入品の獨占權を握り、之によつて多大の利得を收めた。兔に角南宋時代には、外國貿易が政府の重要なる歳入の一とみなされて居つた。
されば元の世祖が宋を滅ぼして江南を平定すると殆んど同時に、この收益多き外國貿易に着眼したのは、無理ならぬ次第である。世祖はこの目的を遂行する爲には、久しく外國貿易のことを管理して、尤も斯道に通曉して居る蒲壽庚の助力を借らねばならぬ。『元史』の世祖本紀を見ると、至元十五(西暦一二七八)年八月に、世祖は蒲壽庚等に命じて、海外諸國に成るべく從前の通り、支那沿海へ貿易に出掛け來るべく、勸諭の使者を派遣することにした。その直接又は間接の結果として、占城 Chamnpa、馬八兒 〔Ma^bar〕 の二國先づ通商を開き、引續きその他の南海諸國も之にならひ、元一代の外國貿易も亦かなり盛況を極めて居る。この外蒲壽庚は又間接ながら、世祖の日本征伐事件に幾分關係して居る樣である。
蒲壽庚の事蹟は『元史』に至元二十一年(西暦一二八四)を限つて、その以後のことが見えぬ。當時彼は最早かなりの老年で、間もなく世を辭したものと想像される。
さきに紹介して置いた如く、蒲壽庚の兄に蒲壽※[#「宀/成」、第4水準2−8−2]といふ者がある。蒲壽庚も多少文雅の心得をもつては居つたが、兄の蒲壽※[#「宀/成」、第4水準2−8−2]が詩を以て優に一家をなしたには及ばぬ。蒲壽※[#「宀/成」、第4水準2−8−2]は一時梅州(廣東省潮循道梅縣)の知州として令名を馳せたが、宋末に退隱したから、その官途の經歴は弟の蒲壽庚の如く顯著でない。蒲壽庚の人物は寧ろ單純一徹な武人氣質で、餘り策略に長ぜぬが、蒲壽※[#「宀/成」、2−8−2、199−10]は文學の趣味も深く、思慮綿密で宋元鼎革の際に、蒲壽庚のとつた進退は、多くその兄蒲壽※[#「宀/成」、第4水準2−8−2]の計畫指圖に由つたものと傳へられて居る。その晩年に蒲壽※[#「宀/成」、第4水準2−8−2]は世間の批判を憚り、泉州府城東南郊外の法石山に隱居して、風月に身を託したといふ。
その他蒲壽庚の一族としては『※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]書』に據ると、彼の長子に蒲師文と申す者があつて、始終父の股肱として活動したが、人物が暴悍であつた故か、餘り出世をせずに身を終つた樣である。又『八※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]通志』卷の三十に據ると、元の世祖の末年に、福建行省の參知政事(從二品)となつた蒲師武といふ者がある。その年代及び姓名から推すと、彼は蒲壽庚の子で、蒲師文の弟に相違あるまい。
宋末元初の周密の『癸辛雜識』を見ると、泉南在住の巨賈に、南蕃人佛蓮と申す者があつて、蒲氏の壻となり、盛んに海外貿易を經營したが、死後嗣子なき爲に、政府がその遺産を沒收したことを記してある。單に蒲氏とあるのみでは、勿論斷言は出來ぬが、或は蒲壽庚の一家であるまいかと想像すべき餘地がないでもない。
『八※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]通志』の卷二十七に擧ると、元の晉宗の泰定年間(西暦一三二四―一三二七)に、福建等處都轉運鹽使(正三品)といふ官――これは鹽鐵、酒醋等の專賣事業を統べ、兼ねて市舶のことを管理する大官である。――を占めた蒲居仁といふ人がある。或は蒲壽庚の孫にでも當るべき人かと想像される。
要するに蒲壽庚は元朝に忠勤を抽でて重用されたのみならず、彼の一族は元一代を通じて福建地方に大なる勢力を振つた。同時に隨分世間から嫌忌された樣である。『※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]書』の卷一百五十二に、
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元以[#二]〔蒲〕壽庚有[#一レ]功。官[#二]其諸子若孫[#一]。多至[#二]顯達[#一]。泉人避[#二]其薫炎[#一]者十(?)餘年。元亡廼|已《ヤム》。
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とあるによつて、その大體を察知することが出來る。蒲壽庚が元に登庸されて以來元の滅亡に至るまで約九十年に及ぶ。『※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]書』に泉人避[#二]其薫炎[#一]者十餘年とあるは、恐らく八十餘年の誤脱であらう。
かくて明の太祖が元に代つて天下を一統すると、漢族の國家再造を標幟とした彼太祖は、その返報に、この元と因縁深き福建の蒲姓の一族の仕官を禁じた。さらぬだに色目人の威勢の傾いた時に、官途の禁錮まで受けては、愈※[#二の字点、1−2−22]社會に於ける蒲姓の面目が失はれた譯である。此の如くして福建の蒲姓は次第に衰微して、遂に世間の視聽の外に埋沒し終つた。
底本:「桑原隲藏全集 第五卷 蒲壽庚の事蹟 考史遊記」岩波書店
1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「宋末の提擧市舶西域人蒲壽庚の事蹟」東亜攻究会(上海)
1923(大正12)年11月発行
※「蒲壽庚の事蹟」の、本文のみ(底本28〜30、64〜67、126〜131、167〜170、198〜200頁)を入力した。
※本文に付された注釈番号は、入力しなかった。
※以下の3字下げを、2字下げに改めました。「元以[#二]〔蒲〕壽庚有[#一レ]功。官[#二]其諸子若孫[#一]。多至[#二]顯達[#一]。泉人避[#二]其薫炎[#一]者十(?)餘年。元亡廼|已《ヤム》。」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:米田進
2003年4月2日作成
2004年4月1日修正
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