宗の顯徳年間(西暦九五四―九五九)に、占城國の使者※[#「艸かんむり/甫」、第3水準1−90−86]訶散といふ者が、薔薇水を獻上して居る。薔薇水は大食國殊にペルシア灣沿岸地の特産で、占城の産物ではない。※[#「艸かんむり/甫」、第3水準1−90−86]訶散の名もアラブ人で、Abul Hassan の音譯らしい。※[#「艸かんむり/甫」、第3水準1−90−86]訶散の外に、宋時代にこの國から支那に來貢した使者の名に、アラブ人らしいのが尠くない。
 支那の南方の門戸に當る海南島にも、後くも、宋元時代に、アラブ商人、然らずともイスラム教徒が、かなり移住して居つた樣子で、兔に角この住民にも、蒲姓の人が尠からざる事實がある。
 さて本題の蒲壽庚に立ち返つて、彼の祖先のことは已に紹介した通り明末に出來た『※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]書』の中に、尤も詳細に見えて居る。その記事に據ると、彼の祖先はもと廣州に住居して所謂蕃長の職を務め、大なる資産をもつて居つた樣である。鄭所南の『心史』には、蒲受畊(蒲壽庚)の祖は、兩廣第一の富豪であつたと記載してある。この蒲壽庚の祖先が、もと廣東に僑居して
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