を附して居る。此等の船は勿論帆船で、航海にかなり時日を要した。大食の商人はその本國と支那との往復に普通二ヶ年を費した。
支那に往來する外國商人は、勿論その自國船に搭乘した者が多いけれど、又南洋航行の支那船に便乘した者も尠くない。殊に宋元時代にかけて、大食の商人は普通に支那船に便乘した。
當時南洋航行の支那船の構造設備等は、割合に整頓して居つた。支那船たると外國船たるとを問はず、當時の貿易船はすべて帆船であるから、風を第一の手頼とする。南海から支那へ來るには、西南風の吹く舊暦の四月の末から五、六月の頃で、支那から南海に往くのはその反對に東北風の吹く十月末から十二月の間に限つた。是故に舊暦の五月から十月にかけての半年間が、支那の諸港に在る蕃坊の繁昌期である。
蕃坊在住の外國商人の多數は、冬期に一旦歸國するが、その儘蕃坊に居殘る者も尠くない。これを住唐といふ。中には五年も十年も歸國せずに蕃坊に永住する者もある。北宋の徽宗の政和四年(西暦一一一四)に、諸外國人の中國に居住すること已に五世を經た者の、遺産處分法を定めて居るのを見ると、その頃五世も引續いて永住した蕃商のあつたことがわかる。かかる永住の外國人が中國にて生んだ子を、當時土生蕃客と稱した。本題の蒲壽庚の如きも、多分この土生蕃客であらうと想像される。
三 廣州居留の蒲姓
愈※[#二の字点、1−2−22]本題に入つて蒲壽庚のことを申述べるのであるが、この蒲壽庚といふ人は、もと外國人で、南宋の末期に三十年間も、提擧市舶の職を務めて、巨大なる財産と勢力とを蓄へ、宋元鼎革の際にかなり重要なる關係をもつた人である。併し『宋史』にも『元史』にもその傳を載せてない。清の魏源の『元史新編』の目録には、二十九に平宋功臣列傳があつて、その中に蒲壽庚の名を列してあるけれども、肝心の本文にはその傳が缺けて居る。最近の出版に係る民國の柯劭※[#「文/心」、第3水準1−84−39]氏の『新元史』には、流石にその卷百七十七に、蒲壽庚の傳を收めてあるが、記事は極めて寥々たるもので、その外國人たることに就いては、一言隻句も述べてない。『宋史』殊に『元史』の記事中には、時々蒲壽庚の名が出て來るけれど、全く斷片的で、その人の經歴や血統を闡明すべく甚だ不十分である。從つて東西の學者間にも、この人の事蹟は、今日まで殆んど知られて居らぬ。
蒲壽
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