蒲壽庚の事蹟
桑原隲藏

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)地理學者 Ibn《イブン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)元亡廼|已《ヤム》。

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「或」の「丿」に変えて「彡」、第3水準1−84−30]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)西暦八世紀の後半に、〔Abba^s〕 王朝が
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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  本論

   一 大食人の通商

 西暦八世紀の初頃から、十五世紀の末に、ヨーロッパ人が東洋に來航する頃まで、約八百年の間は、アラブ人が世界の通商貿易の舞臺に立つて、尤も活躍した時代で、殊に西暦八世紀の後半に、〔Abba^s〕 王朝が縛達 〔Baghda^d〕 に都を奠めて以來、彼等は海上から印度や支那方面の通商に尤も力を注いだ。
 アラブ人はペルシア灣から印度洋を經、マライ半島を廻つて、今日の廣東へ來て、盛んに通商を營んだ。廣東をその當時のアラブ人は、Khanfou (Khanfu)  と呼んだ。Khanfou とは廣府の音譯である。今日の廣東は唐時代に、廣州とも廣府とも呼ばれた。『舊唐書』『唐六典』を始め、當時の公私の記録に廣府といふ名稱が疊見して居る。
 この廣州の外、嶺南の交州、江南の揚州、福建の泉州にも唐時代からアラブ人が通商を開いて居つた。西暦九世紀の半頃のアラブ地理學者 Ibn《イブン》 〔Khorda^dbeh〕《コルダードベー》 の著書に、支那の貿易港を南から順次に數へて、〔Louki^n〕《ルウキーン》 (al Wakin), Khanfou, Djanfou《ジヤンフウ》, Kantou《カンツウ》 (Kansu) と記載してあるが、この 〔Louki^n〕 は交州、Djanfou は泉州、Kantou は揚州を指したものと思はれる。併し此等諸貿易港の中で、勿論廣州が第一に繁昌を極めた。その有樣は今日でも東西の史料によつて、かなり詳細に知ることが出來る。
 アラブ人の支那通商は、その間に多少の盛衰や、一時の斷絶は
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