改築した際に、城壁の四周に刺桐樹を植ゑ付けたから、泉州城はその後、刺桐城とも、桐城とも、呼ばるることとなつた。アラブ人はこの刺桐城をその儘に、〔Me'dinet〕《メジネー》 Zeytoun《ゼイツウン》 といひ、或は城市の意味に當る 〔Me'dinet〕 を略して、單に Zeytoun と呼んだのである。

  二 支那居留の大食商賈

 宋時代に支那に通商したアラブ人が、支那の開港埠に於ける生活状態を一瞥すると、彼等は事實としては、時に城内に支那人と雜居したこともあるが、原則としては一定の居留地をもつて、ここに住居して居つた。當時この居留地を蕃坊と呼んだ。蕃坊とは蕃人の住居する坊市の義である。泉州の居留地は州城の南に在つて、普通に之を泉南と稱した。泉南は晉江の流に臨んで、海上交通の便利多かつた故、ここに居留地が設けられたことと想像される。廣州の方も同樣で、珠江の流に臨んだ方面に、蕃客の居留地が在つた樣に想ふ。
 この居留地を取締る爲に、蕃長司といふ役所が設けられ、そこに都蕃長又は蕃長が居つて事務を管理した。この都蕃長又は蕃長は、在留蕃客の中に就いて尤も徳望ある者を選んで、支那政府から任命したことと見える。彼等は蕃坊の取締りに任ずる外、又支那政府の爲に、海外の蕃商を招徠することに努力した。
 宋時代には支那政府は概して蕃客の通商を奬勵した。自然在留蕃商を優遇して、たとひ彼等に多少の犯則非法の行爲があつても、大抵は不問に看過した。在留蕃商同志の間に起る犯罪は、唐時代から彼等本國の法律によつて處分し、支那官憲は干渉せぬのを原則としたが、宋時代には一層この範圍を擴めて、蕃商と支那人との間に起る犯罪でも、重大事件にあらざる限り、成るべく彼等の法律によつて處分することにした。
 北宋末の朱※[#「或」の「丿」に変えて「彡」、第3水準1−84−30]の作つた『萍洲可談』に據ると、在留外國人が徒刑以上の重罪を犯せば、支那官吏の手で裁決し、それ以下の輕罪は蕃坊に送つて、蕃長自身の裁斷に一任したとあるが『宋史』の列傳などを見ると、宋時代に支那在留の外國商人が『萍洲可談』の記事以上の特典を受け、一種の治外法權をもつて居つたことを疑ふことが出來ぬ。
 宋時代に、支那の沿岸諸港に來寓した蕃商即ち外國商人は、主としてイスラム教徒と見え、決して豚肉を食用せぬ。彼等は皆巨萬の富を擁して衣食住に贅
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