記憶せねばならんのに、これはまた余りに容易なわざだった。で彼女は、東京にも指を折る程しか無い本式のレストランを除いては、女給の仕事が低能にでも出来る確信を得た。
登恵子は経済が少し楽になると流石《さすが》に病床の良人が想われて、毎夜毎夜家をあけることがかわいそうになったので、仮令《たとい》遅い乍も店がはねてから帰って、責めて寝る時だけでも良人のそばにいて看てやり度いと考えた。そして亀甲亭の主人にその由を話すと、
「では、よく考えて置く。」と言って即座には返事をしない。
バラックの街は騒然として暮れて行った。そうしてうす暗い夜の世界が展《の》べられると蝙蝠《こうもり》のように夜だけ羽をひろげて飛び廻る女供を狙う幾多《あまた》の男が、何処からともなく寒いのも打ち忘れてぞろぞろと出て来る。此の頃から昼の飯時以来すっかり客足のとだえた亀甲亭へもぽつりぽつり酒呑み客が現われるのである。大工のような男が入って来た。
「嫂《ねえ》さん、お銚子一本。」
「おしんこくんねえ。」
「カツ。」
「お銚子のおかわり。」
「カツもう一枚くんねえ。」
登恵子にはこういう客の給仕が実に馬鹿らしかった。自分の
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