、今都合が悪いから一ヵ月和食の方で働いてから廻すという約束で、取りあえずお座敷女中を働くことになった。
千歳の主人は先ず彼女に髪の結い方を変更すべく命令した。登恵子は随分情なかったが金儲のためなら詮方ないと諦めて日本髷のカモジや櫛など一切の道具を買い整えて馴れぬ銀杏返しを結った。そして日本前掛をかけて働いていると、二日目の朝|女将《おかみ》が、
「お前、気の毒だが旅館の方へ二三日手伝に行っておくれ。彼方に女中が足りなくて困っているそうだから。」と言うのであった。
登恵子にとっては似体も知れぬ旅館などへ行くことは甚だ迷惑であったが、僅か二三日の手伝くらいならこれも仕様がないと思って言わるる儘に其方へ手伝いに行った。ところがその日|不図《ふと》した拍子に良人の許から来た端書《はがき》を見られたのである。すると女将は怖ろしい権幕で、
「お前にはこんなつきものがあるのだね、家には亭主有ちなんか置けないから出て行っておくれ。たった今出て行っておくれ。本当に洋菜屋さんもこんな女をつれて来るなんて……。」とつぶやき乍ら立ち処に暇を出して了った。
彼女はお湯道具や寝巻の入った風呂敷包みを抱えて雷門の街頭に立った時、忿激に燃えて地が揺れるように思われた。そして軒を並べる飲食店のおやじが皆な一様に薄情であり、幾多の女中共が此のように不合理きわまる悪制度に屈従しているのだと考える時、矢も楯もたまらないような気がした。
さも美味そうに高いお銭を払って飲食して居る客どもに対して此上なく侮蔑が感ぜられた。先ず凡ゆる料理場の内幕を見せてやり度かった。昨日の残り酒は今日新たなお銚子となって客の前へ出る、先の客が食い残したものは次の皿へ加えられる。梅毒やみのコックが***********洗いもせず直ちに肉を切る、便所も流しも板場も一処こた[#「こた」に傍点]なのである。実に汚くて非衛生的きわまるのだ。
登恵子が途方に暮れて立っいると、今しがた出て来た許りである千歳の料理番が、
「登恵ちゃん、何を考え込んでいるんだい。」と言って不意打ちに声をかけた。
「ああ、あたし驚いたわ。」
「登恵ちゃんが今ひま出されたんだろう、何処か行く先はきまっているのかい?」
あばた面の料理番は柄にも無い親切らしい声でこう訊くのであった。
「あたし本所の家へ帰るのよ。」
「それは分っているよ。家へ帰ってから先のことだ。」
「別に当てといって無いの。」
「それじゃ俺がいい処世話してやろうか? 四ツ木へ行かないかえ。君家に病人があるて話だからそれなら俺が話してさえやれば三百円や五百円貸してくれるよ。」
「行ってもいいのだけれど四ツ木って言うと少し遠いからね……。」
「七円位は貰いがあるって話だ。これを入院させてやりゃいいじゃないか。」
料理番はこう言って小指を示した。まことに甘《うま》い話である。併し彼女には此の種の人間がどういうことをするのか、大概もう見当がついていたから「良人と相談の上明日千歳まで返事する」と言って分れた。
またしても職を失った登恵子は今度新聞の案内広告を見て京橋の第一流格のレストランへ出向いて行った。其処は通勤女給というのであるから、彼女にとっては極めて好都合であった。ところが主人は彼女と応対し乍ら繁々様子を見て居ったが、
「で、来て貰うとして貴女はまさか其の儘のなり[#「なり」に傍点]で来るのではないでしょうね?」と言った。彼女は顔を打たれるよりもつらい思いがする。泣き度いほど情なかった。で、黙って俯向《うつむ》いていると再び主人は繰り返した。
「その着物で来るのじゃないでしょう?」
「あたし、暫く働かせて戴いてから拵えようと思って居りますが、今の処はこれ一枚っきり無いのです。」
流石に大きい声では言えなかった。すると主人は、
「それは困ったねえ、なにしろ場所が場所だからそのなりではね……来て欲くも来て貰えませんよ。」と断るのであったが、その声がうらめしくて腹立たしかった。
いろいろ思い回《か》えして見れば、女工や鉱婦や淫売婦達が虐げられている事実など空ふく風に、華やかな電燈の下で音楽と酒と白粉《おしろい》の香に陶酔して、制度の桎梏も、生活苦も知らずに幸福な夢をむさぶっているように見えるウェイトレスの生活も、余りに悲惨な存在である。
傭主は彼女達を言いようも無く不当に圧迫して居る。道徳(新しい道徳でも旧い道徳でも、)上からこれを観る時は工場主以上に搾取して居る。むしろ吸血鬼である。工場は兎に角彼女達に神聖な労働を強いて、その中から幾分の剰余価値をはねようとするのだから人間を働かせるということだけは倫理上正しくてまだ優い点がある。併し乍ら、旅館や飲食店等は婦女子の生命にかえて貴いものを看板に使って剰余価値どころでは無く総ての価値を没収して了うの
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