いなまれ乍ら、彼女は酔いどれの手を引いて行かねばならなかった。登恵子は或る用意と覚悟と観念をもって静かに睡った電車道を行くと、矢張り今頃仕舞いかけている同業の店を見ることが出来た。彼女の頭へは比較的正確な工場の勤め時間が茫っと浮かんだ。如何に楽な仕事とは言い乍ら二時三時までも夜更かしせねばならぬ女給の勤めがつくづく無理だと思われる。
その翌日の夕方、登恵子は亀甲亭の主人から思いがけない宣告を受けた。おひる過ぎに一人の女が入って来て奥で主人と暫く話し合った末、店へ出て来て帰らなかったので彼女は朋輩が一人増えたのであろうと想像していたら、それは自分を出す為めの代りであった。
「登恵ちゃん、都合によって代りの人を頼んだから何処かへ行ってくれませんか。」
彼女が顔をなおしていると、出しぬけに主人はこう言った。けれども解雇されねばならぬ理由が頓《とん》と考えられない。
「あたし、何故置いて戴けないのですか? あたし何か不調法があったのですか?」
彼女はやや険を含んで訊き返した。すると主人は、
「いや別に悪いことがあった訳ではないが、家じゃ旦那の有る人は居って貰わないことになって居るのです。」と何事もなく、さも当然そうに答えるのであった。
「でも、良人があったかって、良人がお宅へご迷惑をかける訳ではないでしょう?」
「そりゃそういう訳ではないのですがね、兎に角、そういう店則になって居りますから……。」
彼女は二言三言あらそって見たが、既にもう代りまで来ている以上所詮駄目だと観念した。そして悄然と家へ帰ったが余りに馬鹿らしい事すぎて良人に話しもならないのである。若しそんな事を言ったら短気な彼は病気の体も打ち忘れて亀甲亭へ呶鳴り込むに相違なかった。
翌る日、登恵子はまた本所太平町の家へ時々帰れる範囲内の処で、口を見つけようと捜し廻っていた。
電車通りも、裏通りも、横丁も、その又横丁も、到る処に洋食屋が在って其の半数ぐらいは女給を募集して居る。「女ボーイ入用」主にこう書いてあった。併し乍ら登恵子が入って見ると殆ど皆な嘘の募集札であって、「家は今一ぱいです。」「今晩から来る約束になって居るのです。」「此処には入らないのだが深川の支店へ行ってくれませんか? 支店行きなのです。」というようなことだ。傭って了ったものなれば何故募集広告をはがさない、其処で使わないものを何故広告だけ出して人を釣る。その為めに失職女給はどれ丈け無駄をして迷惑だか分らない。彼女は実に腹立たしかった。
こんな具合でかけずり廻った甲斐もなくその日は勤め口にありつけなかったが、その翌日石原町のカフェースワンというのへ住み込むことが出来た。願わくば通いで勤め度いと思ったが二流三流の店では殆ど通勤が許されなかった。
登恵子がカフェースワンヘ行ってから四日目の夜である。彼女が行った晩から毎夜かかさず飲みに来て二円もチップを置いて行く三人組の職人があった。ずっと以前からスワンへ来る定連だと言って店では鄭重に取り扱っていた。附近の建具工場の職人なのである。それが十二時過ぎてから出前を注文して来た。「登恵ちゃんに持って来て貰い度い。」という条件がついているのだ。彼女はいやいや乍ら建具屋へ料理を運んで行った。すると階下全体が工場になっていて二階が職人の部屋にしつらえられている其処へ彼女を引き上げて、職人は酌を迫るのであった。それから暫くすると三人いた内二人は座を外して了い、何時まで経っても帰らない。――
取り返しのつかぬ間違が起って了った。仮令不可抗な運命だったとは言え良心の苛責に堪えない彼女は、暫し茫然として立つことさえも出来なかった。
登恵子は此のことを早速スワンの主人に話し、相当な処置をとってくれればよし、さもない時は良人に打ら明けた上彼の宥《ゆる》しを乞うて断乎たる方法を採ろうと決心した。そうして取りあえず主人に抗議を申し込むと、
「どうせこんな水商売をして居るからにゃねえ登恵ちゃん、そう貴女のように固くばかりも言って居られんよ。」とせせら笑って相手にしない。思うにこういうことが店の営業政略となっているのである。
登恵子はもう少しも躊躇することなく凡てを良人の前へ打ち明けて、彼の心まかせな処決を甘んじて受けようと思い、言葉を口まで出した。併し乍ら痩せ細って日夜病苦に呻吟する良人を、此の上そんなことで苦めるのは余りに可哀そうで堪えられなかった。で、すっかり全快のあかつき更めて言うことにして怖ろしいスワンを去った。そして今度行ったのは浅草の千歳という肉屋である。亀甲亭にいる頃知り合になった洋菜屋の世話で行ったのだ。
千歳には洋食部と和食部(といってもすき焼専門だが、)と、それから他に旅館とがあって女給仲居が凡そ五十人もいた。始め登恵子は洋食部の方へ志願したのであるが
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