だからその行為たるや憎んでも飽きたらぬのである。
第一流の食堂風なレストランを除いて其他は、殆ど女給仲居に一円の給料も支払わないのが普通で、此の種職業婦人の八割までは全然主人から無報酬で働いている。それだのに女達は「傭人」という名目で其筋へ届け出られる。凡そ世の中に一厘の給料も支払わずに人を雇傭する権利があるであろうか? いや無給くらいはまだいい方でそれが甚しい処になれば逆様に傭人の方から主人へ向けて飯代を支払わねばならない。登恵子が行った千歳などでは月十八円の飯代を主人へ支払った上、何とか彼とか言って十円くらいは板場へ附け届けをせねば済まなかった。若しその附け届けを吝《おし》めば受持ち客の通し物をしても仲々拵えないで困らせる始末、併し心附けで済む間はまだ我慢のしようもあるが遂に彼等は最後のものまで要求するのである。そして応じなければ例の通りで困らせて其処に居たたまらなくして了う。それから又過って器物を毀すと弁償させられ、無銭飲食者に出喰わすとこれまた目先が利かぬと散々小言をきかされた上勘定を弁償させられるのである。何という横暴な主人だ。
第一、客が任意に置いて行くチップが有る所以で傭主が給料を出さぬということが殆ど理窟にならぬ悪弊で、お客は此の為めにどれ程損をしているか分らない。第二、如何に楽な仕事だからとて勤務時間に制限が無く、二時三時の深更まで起きていることは工場の深夜業と略《ほ》ぼ同じ害があってよくない。第三、住込制度とは無限服役を強いる為めに必要なのであるから無論奴隷的悪制度である。で、以上の三項を根本的に改革して有給通勤祝儀廃止制を採って女給やお座敷女中は全然酌をせぬことにし、客の側にへばり[#「へばり」に傍点]ついていないことにして店の営業時間を一定さえすればいいのである。そしてこれ位なことは其筋の飲食店取締規則の改善に依っても容易に実行され得る性質のものであるが、それをしないのは要するに女給の自覚が足りないからだ。
こうした不合理な制度は幾万の若き女性を苦めているか? そして此のあやまった制度が作り出した環境の為めに、幾万の女性が堕落の淵へ沈んで行くことぞ? 登恵子は自分をもこめた女というものの、無力が腹立たしかった。そうして利害を共通する女給や仲居や女中の組合が緊要なことを思わずにはいられなかった。(男性の悪徳浮薄を改革するものは先ず我々の働きであらねばならん、)と。
四月に入って良人の病気は余程よくなった。まる三ヵ月の間に登恵子が払った精神的犠牲は大きなものであったが、でも良人の重病をよくしたことが責めてもの償いである。
彼女は、今度向島請地の笑楽軒というのへ住み込んだ。食卓がたった二個しか据えてない小さな店だのに、それで二人も女給がいるのであった。朋輩の女性は其処で働くのが始めてだという話。登恵子が見ていると、彼女の番に当った客は、
「ボーイさん、カツ一枚とビール一本。」と言って注文した。すると彼女はきまり悪そうな声で。
「カツ一丁……。」とコック場へ向って呼んだ。
それから三十分程たって客が出て行くと主人は不機嫌な顔でつかつかっと店へ出て彼女を叱りつけるのであった。
「お前、何遍言ってきかせてもそんな腕の鈍いことでは駄目だよ。ボーイの腕が鈍い為めに店の収益は些《ちっ》ともあがらねえ。」
笑楽のおやじは半分登恵子にも当てつけるように言った。
「お客がビール一本注文したら三本位持って行って了うのだよ。カツレツなんか注文したら、そんな吝《けち》くさい物を食べずにたまにゃ最と上等の料理おあがりよ、そしてあたしにも驕って頂戴ってせぶるんだ。」
主人は新しい子にこうして押し売りを強いていた。併しこれも半ば登恵子に当てつけたような言い方なのである。朋輩は此の無理難題を一言の口答もせずに御尤《ごもっとも》様で聴いているのだったが、登恵子はもう我慢が出来なかった。で、
「あたしゃね、人にこんな不味い料理の押し売りなんか出来ませんよ。」ときっぱり言い放った。
「なに、家の料理が不味い? 生意気なこと言うな、ボーイのくせに……。」
笑楽のおやじはぐっと眼に角を立てて呶鳴った。
「不味いから不味いと言ったらどうしたの? こんな料理は犬でも食べやしないよ。」
「生意気な、此の女《あま》!」
おやじの毒つく声と形相は全く獣のように見て取られた。
「てめえらのような女は家に置けねえ、出て行きやがれ。」
登恵子にはこう言うおやじの顔が、幾万の女を虐げて豚のように肥満している総ての料理屋の主人の代表の如く思われて、憎悪に堪えなかった。そして、
「誰が居てやるものか、畜生!」と痛烈な一語を残して敢然と其処を立ち去った。と、彼女は(女工がいい、堅実な神聖な労働がいい)とつくづく元の生活が恋しくなった。
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