記憶せねばならんのに、これはまた余りに容易なわざだった。で彼女は、東京にも指を折る程しか無い本式のレストランを除いては、女給の仕事が低能にでも出来る確信を得た。
 登恵子は経済が少し楽になると流石《さすが》に病床の良人が想われて、毎夜毎夜家をあけることがかわいそうになったので、仮令《たとい》遅い乍も店がはねてから帰って、責めて寝る時だけでも良人のそばにいて看てやり度いと考えた。そして亀甲亭の主人にその由を話すと、
「では、よく考えて置く。」と言って即座には返事をしない。

 バラックの街は騒然として暮れて行った。そうしてうす暗い夜の世界が展《の》べられると蝙蝠《こうもり》のように夜だけ羽をひろげて飛び廻る女供を狙う幾多《あまた》の男が、何処からともなく寒いのも打ち忘れてぞろぞろと出て来る。此の頃から昼の飯時以来すっかり客足のとだえた亀甲亭へもぽつりぽつり酒呑み客が現われるのである。大工のような男が入って来た。
「嫂《ねえ》さん、お銚子一本。」
「おしんこくんねえ。」
「カツ。」
「お銚子のおかわり。」
「カツもう一枚くんねえ。」
 登恵子にはこういう客の給仕が実に馬鹿らしかった。自分の腹へ凡そどれ丈けの物が入るか分っている筈だから、初め一時に通して置けばいいものを、お銚子が出来てからおしんこ[#「おしんこ」に傍点]を注文し、それを又たいらげて了ってからカツレツ、それから又お銚子、ビフテキ、曰く何、曰く何々と幾度にも切っては注文して余計な手数をかける。その気の利かなさがどの客もどの客もであるから何ぼ女給の仕事が楽だといっても第一馬鹿らしくて仕様がない。彼女にはこういう処へ飲みに来る男が実に皆なぐうたらに見えた。大概な男が、酌をさせた上、ついには盃を差して酒の合手をしなければ快く思わないのである。そして「おごってやるおごってやる」と言って珍くも無い料理までも食べさせなければ承知しない。
 大工は色んなことを話しながら執拗に腰を据えて動かなかったが、かれこれ二時間も経ってから漸く立ち上って五円近くの会計を済まし、彼女に一円のチップを与えて出て行った。此の客は凡そ三日おき位に一遍ずつ必ずやって来る馴染《なじみ》なのであった。彼には神さんも子供も家もある。酒が飲み度ければ神さんに酌をさせて、ご馳走が食べ度ければ何でも家で子供や神さんと一緒に食べたらよさそうなものであるのに、水
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