しがもうちょっと収入の多いことしなきゃ、これでは迚《とて》もおっつかないわよ。実は先きお薬とって帰りがけに余り沢山女給を募集していたから、二三軒入って様子を聞いて見たの、真面目に稼ぎさえすればどうにか貴方に養生くらい、左程不自由なくさせられそうだから、貴方さえ承知してくれりゃあたし行くわ。」
「ああいう浮いたしょうばいは余り感服しないが、時と場合なら仕方が無いよ。機嫌よく行って働いておくれ。」
「浮いた稼業と言ったって何も銘酒屋女になる訳ではなしさ、そりゃ色んな男も来ようけれど、あたしの心さえ確《しっか》りして居れば大丈夫だわ。」
こうして登恵子が勤め出したのは程遠からぬ本所柳島元町の亀甲亭という和洋食店である。朋輩女給一人にコック一人、家内四人という人数で、客用食卓を三つだけ据えたささやかな店。
先ず彼女は華やかなエプロンを買って掛けた。そして昨日まで女工の登恵子は今日エプロン姿となった収入だめしに、お銭入《あしいれ》をすっかり空っぽにして女給の群へと投じて行った。
翌朝財布を調べて見ると三円二十銭ある。何といううまいしょうばいだろう、と彼女は思う。そして此の分なら、三四日も経てば俥に乗せて病人を専門の病院へ診察受けにやれるだろうことを喜びながら、お湯の序《つい》でに家へ廻って良人に此のことを話して安心させ、お粥の用意などして枕辺へ運んでから再び店へ立ち帰った。こうして毎日朝湯の序でにこっそりと隠れるように家へ帰っては病める良人を看ながら五日辛抱すると、十五円近くのお金が出来て目的通り専門の医者へかけることが叶った。
登恵子にとってそれは嬉いことであったが、併しよく考えて見れば何等人間生活に必要欠くべからざる品物の生産でもない此の遊び仕事に対して、一日三円もの報酬を得ることは唯なんとなく尻こすばゆいような気がしてならなかった。一日じゅう手足を動かし、技術を使って働き通しに働いて僅かに七十銭や一円の賃銀しか与えられない労働婦人に比べて、余りにそれは不当な収入である。始めの程彼女は英語をわきまえぬ自分に、洋食の名前が直ぐ覚えられるかしらんというような心配があったが、それは馬鹿気た程つまらぬ杞憂に終った。何んのことは無いカツレツとカレーライスとビフテキ位おぼえて置けば、殆ど他の料理が出ることは無く、作法も行儀もありはしないのであった。織工でも五十以上英語の名称を
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