った。けれども三度の食事にまで制限を加えている位だから到底そんな金が出来る理由がなかった。そして何時まで辛抱づよく待ってさがして見たとて通勤の仕事などねっからありそうに無い――それほど世は就職難の風が吹きすさんで居った。
 ――仕事が無くて遊んでいる失業者の数と逆比例に、労働時間は長いんだがなあ――彼はあやまった風に動きつつある産業機関と労働組織の矛盾を痛烈にのろった。しかし彼一人の力否十人、十五人、百人、千人の力を以てしても楔の抜けたまま空廻いしつつある巨大なフライ・ホイルを如何ともすることが出来ない。
「仕方がない、当分わかれわかれになって俺も何処かへ住み込みで行こう。」
 彼は決心して妻に言った。
「でも、モルやが困るわねえ……。」
 彼女は、今や全く自分達夫婦の子供のように思っている小さな動物の始末に困った。彼もまた可愛いけものに対する愛着の情になやまされないではいられない。
「生きていて働く権利が無いなんて、何という馬鹿馬鹿しいはなしなんでしょう!」
 妻はこう言ってぼろぼろとくやし涙を落した。
「働く権利は十分あっても機会が与えられない。」
「使う機会の無いような権利が何の役に立つの、癪にさわる!」
「仕方がない、諦めて暫くのあいだ別れてくれ。」
「わたしには、モルモットを愛する権利さえも与えられないんだろうか? ああ――癪にさわる、癪にさわる、くやしい、くやしい、くやしい。」
 彼女は歯軋りするようにこう言って、その日の新聞を引き裂いて了った。そしてますます理性を失ったものの如く良人を罵詈し、小さな動物にまでやつあたりし出した。
「いわば、こんなことになるのはあなたに甲斐性が無いからだわ。正しい事をしてやって行けない世の中だったら……。」
「或いはそうかも知れん。」
 彼は疳のたった妻に対して、余り言葉を返さない方針をとった。
「わたし、モルやを殺して了ってやる。何だ! こんな鼠なんか人間が食べて行けないなんて瀬戸際にのぞんで。」
 彼女は瞼の中へ一ぱい涙を湛え乍ら、込みあげてくる口惜しさに手をおののかせて動物の箱をくつがえそうとした。
 しかし、何も知らない二頭のモルモットはそのちっちゃな可愛い足を投げ出して、一摘みの草の葉を枕にごろりと横に臥《ふせ》っていた。そして人間を信頼しきっている小さな動物はルビーのように透徹した紅の美しい眼を半開にして、微かな寝息で純白の腹をびこつかせ乍らすやすやと眠って居る。その姿は平和そのもののようであり、愛と幸福を告げる天使か菩薩の仏使のように見えた。

   四

 女給を無給で使って看板にしているカフェーでは、彼女にいてほしさにモルモットを伴れて住み込むことを承諾した。それで、妻は動物のつれ子して行き、彼は弁当配達に住み込んで愈々夫婦は別れ別れになった。
 彼女は二三人の朋輩やコックや出前持なんかと一緒に寝るべくあてがわれた店の二階に其モルモットの箱小舎を置いて、コック場から出る西洋人蔘やキャベツやパセリの屑で二ひきの獣を飼った。彼の姿が見えなくなってから二三日というもの、見知らぬ男女がどやどやと箱のぐるりであばれて家の様子が変ったので、小さな動物は脅えたように温順《おとな》しかった。しかし暫くたつと以前よりも一層よく人に馴れて来て菓子を食べる、芋を噛る、紙を食べる、そしてまるっぽの林檎に手をかけて噛りつくのであった。
「××ちゃんはモルモットを飼っているそうだね? そんなけだものを可愛がるよりか、僕にキスさせてくれた方がよっぽどいいや。」
 客達は、こんなに言って彼女をひやかした。けれども彼女は淋しかったので暇さえあれは、モルモットを抱いて動物に話しかけた。
「モルちゃんや、父うちゃんはねえ、いまお弁当の車を曳っぱっているよ、ゴロゴロを曳いているの。モルやはその上に乗せて貰うか?」
 彼女が脣を持って行くと、モルモットはその可愛い口から極めて小さな舌を出して人間の脣を舐めた。
「モルちゃんいい仔だね……キッチュ覚えたの? かちこいかちこい。」
 二ひきのけものを交々抱いて頬ずりすると、モルモットはぴこぴこ鼻を動かして喜んだ。
「父うちゃんがねえ、母ちゃんとモルやを迎いに来るよ。それでは、父うちゃんが来るまでお行儀よくして茲の家で待つの。いいか? 判ったか?」彼女は、こういって宛《さなが》ら本統の子供ででもあるかの如く色んな事を言い聞かせた。
 モルモットは日毎に馴れて怜悧になった。餌を貰う時に、彼女が「モルやお頂戴」と言うと前足二本を宙にあげて小器用に立つようになった。時々自分の小舎である箱を鼠のように噛ったりするので、軽く頭を叩いて戒めてやると長いあいだ頭を上げないで怒っている。小さなものが一人前に怒ることを知っていて、ぐざりとふてた真似をした。けれども、彼女にとっては
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