それがまた一層かあいかった。
五
失業中に書いた「工場史」が出版される運びになってその方の金が少しばかり前借でき、見すぼらしい乍らも間借りして再び世帯が持てるようになったので、[#読点は底本で開きかぎ括弧で誤植]彼はカフェーヘ妻を迎えに行った。そうしてモルモットと共に伴れ帰って山の手の郊外へ引き移った。
もう秋だった。坂の楓が色づいてお屋敷の庭から木犀の匂いが漂って来る。お宮では銀杏が黄ばみかけ、お寺には萩が咲いていた。下町の場末の、工場地帯にばかり住んで居った故郷を出てからというものまるで自然と勘当を受けたような生活していた彼は、久しぶりに煤煙の混らぬ清らかな空気を肚一ぱい吸うことが出来て蘇生の思いがした。永年の工場生活より来ている痼疾が、日毎に取り除かれて癒って行くようにさえ考えられた。六畳の二階がりで部屋は狭い。道具はない、着物もない――しかし二人はこれまでにかつて感じた経験の無いゆっとりとした気分の生活を味わった。
夫婦が散歩するときは勿論のこと彼女は何処へ行くにもモルモットの牝の方を抱いて行った。八百屋へ行くにも酒屋へ行くにも、豆腐屋へ行くにも、彼女は決して独り行かなかった。尤も、それには動物を伴れて行く方が都合のいい訳もあった。たとえば豆腐のおからを一銭買うようなとき、人が食べるためと言えばたったそれっぱかり可笑しいが、モルに遣るのだと言えは少しも嗤《わら》われないのだった。しかし乍らそんな功利的な考えからではなく、彼女は真実モルモットが可愛かった。
「あなた、今日ねえ、モルやは八百屋のおばちゃんに人蔘一本もらったわよ。」
或る日、彼女は例の如く動物を使いに伴れて行って帰ったとき言った。
「ふうん……そんなものでも儲け物するのかなあ。」
彼はこう答えて微笑んだ。モルモットは、五寸くらいな葉のついた西洋人蔘を咥えていた。
「あなた、よう、モルやは今日も儲け物したわ、バナナ一本もらったの。」
翌日、小さな動物はまたもや八百屋で貰い物をした。そして、その明る日も梨を一個もらって来た。と、彼女は何時しか此のこつを覚えてその八百屋でばかり青物を買うようになった。すると、モルモットはその度毎に必ず何か食べ物を貰って、彼女の胸でそれを食べ乍ら家へ戻った。
「わたし、前は何故あんなによく怒ったんだろう?」彼女は小さな動物をあやしながら、それを蹴ちらかした時の事を思い出して良人に言った。
日に一度ずつ散歩がてら其処へ伴れて行って、生えた草を動物に食べさせてやる丘が一面の枯野ガ原に包まれ冬の眠りに陥る頃、かねて姙娠していたモルモットのお肚は愈々おおきくなって来た。そして七十日ほど経てば出産するという小さなものは、遠からず赤ん坊を産みそうである。暫くのあいだ快活になっていた妻は、そのモルモットの肚を診察しては憂鬱な顔をした。そして、
「モルや、お前までが母ちゃんに成るんだねえ……。」と羨ましそうに言って涙をこぼした。
少女の頃から工場へは入って女工生活をし、冷たい敷石の上に塵埃を吸って粗食しつつ生長した彼女は、もう永久に母たる事が出来なかった。
「モルや、お前が赤ちゃん産んだら母ちゃんはおばあちゃんになるんだよ、そして父うちゃんがおじいちゃん。お前は、いつ赤ちゃん産むんだ!」
彼女は奪われた母性を歎いて、思わず落した大粒な涙をモルモットの肚に転がし乍ら、自からの心をまぎらわすためにこう冗談いって、小さな動物の体をぎゅっと力強く握りしめた。
底本:「日本プロレタリア文学集7 細井和喜蔵集」新日本出版社
1985(昭和60)年9月25日初版発行
底本の親本:「文章倶楽部」
1925(大正14)年10月号
入力:大野裕
校正:林幸雄
2000年12月28日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
細井 和喜蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング