杉の樹立の間を湖の前に下りた頃は、寂しげな微笑《ほゝゑみ》が君の唇に上りました。これは幼い時の遠い美しい記臆が胸に浮んだからです。ソレを語りつゝ君は今の慘憺《みじめ》な境遇にくらべ、又行衞は黒い雲が横はつて何の希望《のぞみ》もなく死の一字が赤くたゞ閃いてをることを嘆かれました。實際その時には全くわたくしにはソレを慰める言葉がなかつたのです。湖水は古刀の身のやうに亂れを靜めて細長く輝いて居ります。春の雲が夢を弄ぶあたりには、鮮かな筑波の影が見られます。二人は默て仕舞ひました。あゝ汀をたどり落葉をふんだ二月の逍遙! 夜雨君の胸には永生きしますまい、私の記臆にはあり/\と殘てをる……筑波山と大寶沼(古の騰波の淡海)とは君が所有せらるゝ自然の全部であつて、此書を繙かるゝ諸賢は必ず此山水を御忘れのなきやうに願ひたい。君は其後同人と共に箱根の入浴に加名し、又客年父君に從うて親戚の方と博覽會の見物旁奈良から伊勢の方を旅行せられましたが、ソレも五六日のことで、君の自然は甚だ狹いものであります。
 これからは交際も一層の親密を加へ、書面の往復も以前よりは頻繁と成り、今では全くの心友と成て了ひました。君の
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