きも
忘れては
涙のなかに
死にもせで


  破れし築地


蕾ふくるゝ曉は
玉なす露の色添へば
花を踏みゆくよきひとの
長き裳裾もみだれけり

嫩草《わかくさ》青き「こりんず」の
野に入相の露罩めて
はつかに暮れし花の上に
月の光のほのめけど

刺《はり》は花より刺多き
北咲きめぐる高殿の
窓もうばらに閉されて
野はたゞ花となりぬかな

破《や》れし築地《ついぢ》にみだれたる
くれなゐの下は栗鼠《りす》啼きて
白日《まひる》の花に飛びまどふ
胡蝶の羽の懈《たゆ》げなる

大理石《いし》の扉も埋れては
花の扉となりぬれば
迷ひの宮か花の扉《と》を
入りて歸りし人ぞ無き

栗毛の駒を乘りすてゝ
門をくゞりし武士も
かへらずなりて銀の
鞭は野末に錆びたりき

五月雨髮《さみだれがみ》をときいろの
りぼんにとめし未通女子《をとめご》の
籃を腕《て》にして垣の中に
入りにし跡は花に問へ

花のやかたと名に立ちて
匂へるばらのおのづから
裡《うち》にいませる姫君の
まもりと築《つ》きし城なれば

瑤《たま》の臺《うてな》に咲き纏ふ
花や栞《しをり》をおほふらん
池の八つ橋渡り來る
人をも薔薇の埋みつゝ

裁《た》たまくをしき唐綾《からあや》の
ふすま襲《かさ》ぬる姫君の
夢驚かす風の音は
閨のほとりに騷がねば

紅匂ふ唇に
やさしき息のかよへりや
花ぐしおちしまへ髮に
光を投げん灯《ひ》は消えぬ

錦の帳《とばり》奧ふかく
まろねの袖をかたしきて
月はさせども身じろがず
花は散れどもさめずして

若紫《わかむらさき》の房《ふさ》ながき
籠の鸚鵡も餌《え》を呼ばで
苑に對《むか》へる渡殿《わたどの》の
褄《つま》はうばらにおほはれぬ

湯殿に懸けし姿見の
鏡に花の這《は》ひよるまで
荒《あれ》たる館《たち》の花妻の
夢よ醉ふらん薔薇の香に

南の空に秋立ちて
常世の雁はかへれども
まぼろしなれやうたゝねの
夢にも魂のかへらざる

南の空に
あきたちて
常世のかりは
歸れども
  〜〜〜〜〜〜〜


  かたち


浮べる雲の一綫《ひとすぢ》は
碧きが中にたゆたひて
覆輪《さゝべり》着けし銀の
天の島とも見ゆるかな

潮の底より月出でゝ
影、中空に盈ち來れば
浪靜かなる大和田の
月は舟とも見ゆるかな

舟か水門《みなと》の舟ならば
せめては長き秋の夜を
際《はて》なき水に流されて
灼《もゆ》る枕を浸《ひた》さんに

毒ある鏃足に受けて
野べに嘯《うそぶ》くことをすら
停《とゞ》められたる我なれば
唯舟こそは戀しけれ

負ひたる傷の深ければ
物に觸るゝを厭へども
寢ぬに綾無《あやな》き幻の
花の象《かたち》の眼に見えて

緑、紫、紅の
花は、電、空の虹
環りて、消えて、美しの
人の顏さへ浮き來るを

千草に渡る金風の
露吹きこぼす朝ぼらけ
花の苑生《そのふ》を眺むれば
長しとも思ふ命かな

今日も落ちたる花片の
しめれる地《つち》に香を留めて
  *   *
    *   *
香取《かとり》の海は川となりて
浪逆《なさか》の浪はよも逆らじ
行かんか旅に病みぬとも
今は悲む夢も無し
  〜〜〜〜〜〜〜


  旅にして


山秀でたる吾妻路の
平野《たひら》の水をあつめ來て
南に落つる利根川の
浪は寂《しづか》に翻《かへ》るかな

行くともわかぬ白雲の
かゝりて長き眞砂地や
蘆邊に立ちて眺むれば
浪逆の浦は雨晴れて

日光《ひかり》あまねき湖の上を
遙に渡る尾長鳥
ま白き翼《はね》は搖《うご》かさで
鳴く音は空の秋の風

鏡に映《かよ》ふ花ならば
異《け》なる影にも慰まむ
思へば旅の果にして
新たに戀ふる人は無きを

蝦捕り舟の漕ぎなづむ
八十《やそ》の水門《みなと》はへだつれど
霧に浮べる月波根の
眉なす根ろは北に在り
  〜〜〜〜〜〜〜


  野の花


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東白《しのゝめ》の
  野べに生れて
朝露を
  頬の上に置き
夕されば
  地球《つち》の腕に
抱かれて
  眠る野の花

唇に
  誰かふれけむ
接吻《きつす》の痕
  微かにとめて
夕榮の
  うつらふ丘に
紅を
  含みて立てり

彷徊《さまよ》ひし
  羊の群は
薄霧の
  遠《をち》に歸りぬ
口笛の
  鳴りしやいづら
花の野は
  やゝに暮れけり
[#ここで字下げ終わり]

秀峰《ほつみね》めぐる薄雲の
靜かに岫《ほら》に歸る見て
われ露原に立ちし時
紫尾野《しをの》の秋はつらかりし

汀に散らふ浪の花
白帆上げたる瀬越《せご》し舟《ぶね》
國府津《こふづ》の浦にわが立ちし
旅の情を忘れねば

星かすかなる中空に
あこがれたりしわが魂も
やさしき花を地《つち》に見て
新たに灑ぐ涙あり

北の光の野をかけて
輝きかへる雪の上に
凍りし花を春解かば

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