水準1−47−62]弱《ひよわ》い形《なり》でどうしてあれだけの詩篇が出來、其詩篇が一々|椋實珠《むくろうじゆ》のやうに底光りのした鍛錬の痕を留めてをる、其精力の大さでした。君の學問は全くの獨學で、高等小學の課程すら踏まなかつた位ですから、學問で詩を作る人ではない。當時わたくしは君を以て天才の人と認めました。天才でなければこの境遇この學力で、どうしてこれだけの事業が成し遂げられたか、殆んど奇蹟といはなければなりません。其後は日々火燵に踏み込んで詩作を鬪はしました。其時に君の容貌を見て居ると、動かざること石のごとしといふのでしようか、四周の事物には一切耳目を假しません。時々低誦しては調子の鹽梅を計つてをられます。幾時間でも此の通り、別に疲勞したといふ風も見えぬ。一通り出來ると、今度は添削にかゝる、これがまた尋常でない、自分で滿足する迄は一日でも二日でも紙と筆を離さぬ。熱血を灑ぐといふのはこれだらう、こうなくちやホンとうの詩は出來ぬと、竊かに舌を捲きました。其内春が來て長閑に成りましたから、或日相携へて大寶の沼に遊びました。十町足らずの歩行に君の疲勞は非常であつたのですが、八幡宮に參詣して杉の樹立の間を湖の前に下りた頃は、寂しげな微笑《ほゝゑみ》が君の唇に上りました。これは幼い時の遠い美しい記臆が胸に浮んだからです。ソレを語りつゝ君は今の慘憺《みじめ》な境遇にくらべ、又行衞は黒い雲が横はつて何の希望《のぞみ》もなく死の一字が赤くたゞ閃いてをることを嘆かれました。實際その時には全くわたくしにはソレを慰める言葉がなかつたのです。湖水は古刀の身のやうに亂れを靜めて細長く輝いて居ります。春の雲が夢を弄ぶあたりには、鮮かな筑波の影が見られます。二人は默て仕舞ひました。あゝ汀をたどり落葉をふんだ二月の逍遙! 夜雨君の胸には永生きしますまい、私の記臆にはあり/\と殘てをる……筑波山と大寶沼(古の騰波の淡海)とは君が所有せらるゝ自然の全部であつて、此書を繙かるゝ諸賢は必ず此山水を御忘れのなきやうに願ひたい。君は其後同人と共に箱根の入浴に加名し、又客年父君に從うて親戚の方と博覽會の見物旁奈良から伊勢の方を旅行せられましたが、ソレも五六日のことで、君の自然は甚だ狹いものであります。
これからは交際も一層の親密を加へ、書面の往復も以前よりは頻繁と成り、今では全くの心友と成て了ひました。君の
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