明治の戦争文学
黒島傳治
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《》:ルビ
(例)幾許《いくばく》
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(例)※[#「耒+巨」、164−下−5]
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(例)ます/\
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第一章 序、戦争と明治の諸作家
明治維新の変革以後、日本資本主義は、その軍事的であることを、最も大きな特色の一つとしながら発展した。
それは、維新後の当初に於ては、おくれて発達した資本主義国として、既に帝国主義的段階への過渡期に入りつゝあった世界資本主義に対抗するため軍備の力が必要だった。しかし、その軍事的性質は、国民的解放の意義が失われ過ぎ去った後までも存続し、日清、日露の戦争に勝利を博すると共に、ます/\支配的地位をかため、発展した。
明治年間、殊に、日清戦争から、日露戦争前後にかけての期間は、最も軍国主義的精神が、国内に横溢した時期だった。そして、これは明治時代の作家の、そのかなり大部分のイデオロギーにも反映せずにはいなかった。殊に、明治に於ける文学運動のなかでも歴史的に最も意義のある自然主義運動の選ばれた代表者、国木田独歩、田山花袋についてそれを見出すことが出来る。勿論、自然主義文学運動は、ブルジョア生産関係の反映として、「在るがまゝに現実を描き出すこと」「科学的精神」「客観描写」「現実曝露」等、ブルジョアジーがその生産方法の上に利用した科学の芸術的反映として、ブルジョア社会建設のために動員され、そして発展したものである。だから、そのなかに、日本ブルジョアジーの特色の一つをなす、軍事的性質が反映しているのは、怪しむに足りない。
国木田独歩は、明治二十七八年の戦争の際、国民新聞の従軍記者として軍艦千代田に乗組んでいた。その従軍通信のはじめの方に、
「余に一個の弟あり。今国民新聞社に勤む。去んぬる十三日、相携へて京橋なる新聞社に出勤せり。弟余を顧みて曰く、秀吉の時代、義経の時代、或は又た明治の初年に逢遇せざりしを恨みしは、一、二年前のことなりしも、今にしては実に当代現今に生れたりしを喜ぶ。後世少年吾等を羨むこと幾許《いくばく》ぞと。余、甚だ然りと答へ、ともに奮励して大いに為すあらんことを誓ひき」と。明かに×××的意義を帯びていた日清戦争に際して、ちょうど、国民解放戦争にでも際会したるが如き歓喜をもらしている。また、威海衛《いかいえい》の大攻撃と支那北洋艦隊の全滅を通信するにあたっては、「余は、今躍る心を抑へて、今日一日の事を誌さんとす」と、はじめている。これによって見ても、独歩が、如何に当時のブルジョアジーの軍国主義的傾向を、そのまゝ反映していたかゞ伺える。更に、日露戦争後に到っても独歩がやはり軍事的ブルジョアジーのイデオロギーに立っていたことは、「号外」「別天地」等の小説によって看取される。
田山花袋は、日露戦争に従軍して「一兵卒」を書いた。同じ自然主義者でも、花袋は、戦争に対して、独歩とは幾分ちがった態度を取ったように、「一兵卒」一篇を見る場合感じられる。その差異については、後で触れるが、また、花袋の「第二軍従征日記」を取って見ると、やはりそこには、戦争と攻撃を詩のようだとした讃美が見られるのである。
島崎藤村については、その渡仏中のことを除いては、いまだ、戦争を作品の中に取扱っているのを知らない。しかし、日露戦争の勃発当時にあって、長編「破戒」の稿を起すにあたって、従軍したつもりで作品に力を打ちこむと云われたと伝えられる。この一事にも、おのずから戦争に対する態度と心持が伺われるような気がする。
このほか、徳田秋声、広津柳浪、小栗風葉、三島霜川、泉鏡花、川上眉山、江見水蔭、小杉天外、饗庭篁村《あえばこうそん》、松居松葉、須藤南翠、村井弦斎、戸川残花、遅塚麗水、福地桜痴等は日露戦争、又は、日清戦争に際して、いわゆる「際物《きわもの》的」に戦争小説が流行したとき、それぞれ、こぞって動員されている。これは、取りも直さず、これらの諸作家が平常の如何に関らず戦争に際して、動員され得るだけの素地を持っていたことを物語るものである。岩野泡鳴には凱旋将軍を讃美した詩がある。
自然主義運動に対立して平行線的に進行をつゞけた写生派、余裕派、低徊派等の諸文学(夏目漱石などその門下、高浜虚子、長塚節、永井荷風、谷崎潤一郎等)については、森鴎外が、軍医総監であったことゝ、後に芥川龍之介が「将軍」を書いている以外、軍事的なものは見あたらない。たゞ、それらの文学と深い関係のある、或る意味ではその先覚者と目される正岡子規の、日清戦争に従軍した際の句に、
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行かばわれ筆の花散る処まで
いくさかな、われもいでたつ花に剣
秋風の韓山敵の影もなし
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等があるばかりである。
しかし、それは、この写生派、余裕派、低徊派等が戦争に対して反対であったからではなく、多くが無関心だったからである。自然主義文学が、資本主義的生産関係を反映し、あるがまゝに現実を描こうと企図したのに対して、この写生派、余裕派、低徊派等は支配階級の中に根強く巣喰っている封建主義を多分に反映して逃避的唯美的傾向に走っていた。それが、この派をして、社会的現実としての戦争から眼を蔽わしめたのである。
以上のほか、硯友社派、及び自然主義派の作家で、全然戦争のことには手を触れなかった若干がある。だが、それは題材の関係であって、若し、それらの作家も戦争を書けば、恐らくその大部分が、当時支配的だった軍事的イデオロギーを反映したゞろうと思われる。
第二章 戦時に動員されて簇出した小説
まず、さきに、戦争に動員されて簇出した戦争小説にふれて置きたい。
一八九四年(明治二十七年)朝鮮に東学党の乱が起って、これが導火線となって日清戦争が勃発するや、国内は戦争気分に瀰漫《びまん》されるに到った。そして多くの新聞(中央新聞、報知新聞、二六新聞等)雑誌(太陽、国民之友、文芸倶楽部等)に戦争小説、軍事小説なるものが現れた。江見水蔭、小杉天外、泉鏡花、饗庭篁村、村居松葉、戸川残花、須藤南翠、村井弦斎、遅塚麗水、福地桜痴等がその作者だった。今手あたり次第に饗庭篁村の「従軍人夫」(太陽、明治二十八年一月)、江見水蔭の「夏服士官」「雪戦」「病死兵」(中央新聞二十七年十二月─一月)、村井弦斎の「旭日桜」(報知新聞二十八年一月─三月)等を取って見るのに、恐ろしくそらぞらしい空想によってこしらえあげられて、読むに堪えない。従軍紀行文的なもの(遅塚麗水「首陽山一帯の風光」)及び、戦地から帰った者の話を聞いて書いたもの(江見水蔭「夏服士官」)は、まだやゝましだとしなければならぬ。他の小杉天外にしろ松居松葉にしろ、みなその程度のものである。だから、右の諸作家の筆になるものを見ても、日清戦争がどういう風に戦われたか、如何なる戦争であったか、その戦場の迫真力のある描写の一つも、また戦時に於ける国内大衆の生活がどうであったかをも知ることが出来ない。多くの作者は、その戯作者気質と、幇間気質を曝露している。むしろ、これらの作家の小説と並んでその傍に、二、三行で報道されている、××の仕打ちに憤慨して銃を自分の口にあてゝ足で引金を踏んで自殺したという兵卒の記事(明治二十八年一月中央新聞)の方が、はるかに深い暗示に富んでいる。
ただ、ブルジョアジーが、その最初の戦争からして既に、多くの作家を動員したという事実が重要である。そして、諸々の作品に見られる愛国的乃至は軍国的意識性は、日清戦争の××××××××して解放戦争、防禦戦争としようとした従来の俗説(高橋亀吉等の)に対して、一つの反証を、ブルジョアジー自身によって動員された文学そのものが皮肉にも提供している。
日清戦争後三国干渉があった。「臥薪嘗胆」なるスローガンは、国内大衆の意識を次の戦争へ集中せしめた。そして、十年して日露戦争が始った。出版物のあらゆるものが圧倒的に戦争に動員された。作家も、文学もまたその例外ではあり得なかった。
「戦争文学」「戦争小説」「やまと桜」「討露軍歌かちどき」等の戦ものばかりをのせる文学雑誌が現れた。またしても、江見水蔭、泉鏡花等は戦争小説を書きだした。広津柳浪、小栗風葉、三島霜川、徳田秋声、川上眉山、柳川春葉等も戦争小説を書いた。当時、作家に対して如何なる意識が要求せられたか、明治三十七年四月号の雑誌「戦争文学」の一文をして、それを語らしめよう。
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「戦争一たび開けて、文士或は筆を収む。曰く武人の時、文士何をか為さむと、アヽ果して為すべき事なき乎。
文士筆を揮ふは、猶武人の剣を揮ふが如く、猶、農夫の※[#「耒+巨」、164−下−5]を揮ふが如し。武人剣を揮ふて外に戦ふもの、武人の家国に対する義務ならば、文士筆を揮ふて[#「揮ふて」は底本では「揮うて」]士気を鼓舞するもの、亦必ず文士の家国に対する義務ならざるべからず。農夫※[#「耒+巨」、164−下−8]を揮ふて[#「揮ふて」は底本では「揮うて」]内に耕すもの、農夫の家国に対する義務ならば、文士紙を展べて軍民を慰藉するもの、亦必ず文士の家国に対する義務ならざるべからず。たとへ一概に然かく云ふこと能はざるまでも、戦時に於ける文士は、決して手を空うすべきに非ざる也。
何となれば、死生の際が人を詩化せしむる如く、戦争は、国民を詩化せしむるものにして、死生の際が人情の極致を発露する如く、戦争は実に、国民品性の極致を発露すべきものなれば也。死生の際が人情の極致を発露する時なりとして詩歌に、小説に、美文に採用せられ、歌はれ、描かれ写されつゝあるは、通例の事に属す。独り国民を挙つて詩化し満目詩料ならざるなく、国民品性の極致を発露し口を開いて賛すべく、嘆すべく、歌ふべく、賦すべきの事に満つる戦時に於て、文士或は却て筆を収めむとするは何ぞや。」
[#ここで字下げ終わり]
以て如何に熱狂的だったかが知れるだろう。今度は、日清戦争のときの比ではなかった。戦争小説は、量的には無数に現れた。江見水蔭だけでも、百三十四篇を書いている。しかしながら、その多くは日清戦争当時と同じく、真面目な文学的努力になるものではなかった。この十年間に、文学運動の上では、言文一致の提唱とその勝利があったが、そしてそれは、より直接的に社会生活を反映し得る手段を整えたものと云い得るのだが、作品に於ては、現実は歪曲され、愛国主義は鼓吹された。自然主義運動勃興以前の各既成作家の行きづまりは、恐ろしく、水っぽい戦争小説の洪水をもたらした。それは、後の自然主義運動に於いて作家としての生長を示した徳田秋声の、この時の作品「通訳官」を見ても、また、小栗風葉の「決死兵」、広津柳浪の「天下一品」、泉鏡花の「外国軍事通信員」等を見ても、その水っぽさと、空想でこしらえあげたあとはかくすべくもない。だが、それらの一つ一つの各作家に於いても、あまりに重要でない作品に対して吟味を与えることは、恐らくそう必要ではなかろう。それよりは、一九三一年の満州上海事変とその後に於て、ファッショ文学が動員されている如く、既に一八九四年の最初の戦争から一貫して、文学は戦争のために動員されていることが注目に価する。そして、そのいずれの文学も下劣極る文学だったことが注目に価する。そして、なお日清戦争後には、高山樗牛の日本主義の主張が起り、日露戦争後には、岩野泡鳴の国粋主義の主張が起ったことも、一九三二年のファッショの発展と照合して、(勿論その社会的根拠に非常な相違はあるが)注目に価する。
更に、もう一つ指摘するならば、一九三〇年頃より「日米若し戦はゞ」とか「米国恐るゝに足らず」とか云った日米戦争未来記が市場に洪水している如く、日露戦争前にあっては、日露戦争未来記が簇出して、いやが上にも敵愾心をあおり立てゝいたこと
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