術的価値を減殺する。
「肉弾」は小説ではない。記録的なものである。日露戦争に弾丸の下に曝された一人の将校によって書かれた。そこには、旅順攻囲戦の戦慄すべき困難と愛国的感情の熱烈な無数の将校の犠牲の山が書かれている。所どころ、実戦に参加した者でなければ書けないなま/\しい戦場の描写がある。後の銃後と相俟《あいま》って、旅順攻囲の終始が記録的に、しかも、自分一個の経験だけでなく、軍事的知識と見聞をかき集めて、戦線を全貌的に描き出そうと努めてある。しかも、多くを書いてあるのに、視野は広いとは云えないし、自由でもない。客観的な現実はそのまゝこゝへは反映していない。「一兵卒」はこれに比すると、量は十分の一にも足らないが、現実は遙かに歪められず自由に掴まれている。
これは、旅順攻囲戦という歴史的な客観的現実を愛国的探照燈で照し出したるが如きものである。客観的な戦争は、探照燈の行った部分だけ青く着色されて映るが、探照燈はすべてを一時に照らすことは出来ない。だから、闇の見えない部分が常に多く残されている。そして若し、別の探照燈で映すならば、現実は、全然ちがった姿に反映するかもしれないのだ。芥川龍之介のやはり旅順攻囲戦争に取材した「将軍」をよんでみるならば、それはすぐ分る。芥川の用いた探照燈は、「肉弾」に用いられてゐる探照燈とはちがうのだ。だから、そこへは、同じ現実でありながら、全然反対なものが投影している。一方には、従順に、勇敢に、献身的に、一色に塗りつぶされた武者人形。一方には、自意識と神経と血のかよった生きた人間。
勿論、「将軍」に最も正しく現実が伝えられているか否かは、検討の余地のある問題であるが、こゝには、すくなくとも故意の歪曲と隠蔽はない。将軍も兵卒も、いわゆる「人間」としてとらえられているのである。
「肉弾」が過去に於て、一千版以上を重ねたと云われる程、多く読まれたとするならば(こゝでは、その大衆的影響を考慮に入れて、わざ/\文学的研究の対象として取上げたのであるが)それは、現実が正確に反映していたからではなく、むしろ反対に、一色に塗りつぶされた勇敢と献身と熱烈な武者振りが、支配階級が必要とした愛国主義と軍国主義の鼓吹に大いに役立ったがためだろう。軍隊では「肉弾」を一冊ずつ兵卒に買わせて読ませた例を知っている。そして、広く行き渡ったにもかゝわらず、いまだ文学的批判の
前へ
次へ
全13ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒島 伝治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング