名勝地帯
黒島伝治
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)笊《ざる》あみ
−−
そこは、南に富士山を背負い、北に湖水をひかえた名勝地帯だった。海抜、二千六百尺。湖の中に島があった。
見物客が、ドライブしてやって来る。何とか男爵別荘、何々の宮家別邸、缶詰に石ころを入れた有名な奴の別荘などが湖畔に建っていた。
小川米吉は、そこへ便所を建てた。便所は屋根が板屋根で新しかった。「駐在所の且那が、おめえに、一寸、来いってよオ。」女房が、笹を伐りに行っていた米吉に帰ると云った。
「何用だい?」
「届けずに、こいつを建てたのが、いけねえんだってよオ。罰金を取るちゅうだぞ。」
「何ぬかしヤがんだい! 便所なしに、一体、野グソばっかし、たれられるかい!」
米吉は、三反歩の小作と、笊《ざる》あみの副業で食っている。――そこは森林が多かった。御料林だった。御料林でなければ、県有林だった。農民は、一本の樹も、一本の枝も伐ることが出来なかった。同時に、そこは禁猟区だった。畠の岸で見つけた雲雀の卵を取って、罰金と仕末書を取られた者がある。農民たちは、それでも、名勝地帯だというんで怺《こら》えていた。今に、国立公園になるというんで、郷土的な名誉心をそそられたりした。
便所のところで、剣が、ガチャガチャ鳴った。
「オイ、来いというのにどうして来ねえんだい!」三時間もすると、又、巡査がやって来た。
「ハア。」
「こんなところに、勝手に便所を建てたりして第一風景を損じて見ッともないじゃないか!」
「そうですか。」
「一寸、警察まで来て呉れ。」
米吉は、警察で、百円の罰金を云い渡された。そして帰ってきた。
「百円の罰金がいるんなら、勝手に取ってくらッせえ!」彼はムカムカして署長に云ってやった。「便所がなくなッて、おいら、どこへ糞たれるんだ!」
「見ッともないじゃないか! もっと隅ッこの人目につかんところへ建てるとか、お屋敷からまる見えだし、景色を損じて仕様がない!」
「チッ! くそッ!」
自分の住家の前に便所を建てていけないというに到っては、別荘も、別邸もあったもんじゃなかった。国立公園もヘチマもなかった。実際、百姓は、眼のさきに森林がありながら、そこの樹を伐ることさえ出来なくッて薪を買わなければならなかった。何故、あの林に這入って、勝手に、必要なものを伐っては
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒島 伝治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング