考えた。
 いのちが有るだけでも感謝しなければならない。
 そして、又、
「アルファベット数えてしまえば、親爺や、お袋がいるところへ帰って行けるんかな。」そんなことを考えた。「俺等にも本当に恩給を呉れるんかな?」
 そこで、一本の脚を失った者に二百二十円かそこらの恩給が、シーメンス事件で泥棒をあばかれた××大将の六千五百円の恩給にもまして有難く感じられて来るのだった。

      六

 病室は、どの部屋も満員になった。
 胸膜炎で、たき出した番茶のような水を、胸へ針を突っこんで汲み取る患者も、トラホーム・パンヌスも、脚のない男も一つの病室にごた/\入りまじった。
「軍医殿、栗本も内地へ帰れますか?」
 彼は、自分から癪に障るくらい哀れみを乞うような声を出してきいた。
「あゝ。」
 栗本の腕は、傷が癒えても、肉が刳《えぐ》り取られたあとの窪んだ醜い禿は消す訳に行かなそうだった。
「福島はどうでしょうか、軍医殿。」
「帰すさ。こんな骨膜炎をいつまでも置いといちゃ場所をとって仕様がない。」
 あと一週間になった。と、彼等は、月火水木……と繰り方を換えた。
 今は、不潔で臭い病室や、時々夜半にひゞいて来るどっかの銃声や、叫喚が面白く名残惜しいものに思われてきた。それらのものを、間もなくうしろに残して内地へ帰ってしまえるのだ。
「みんなが一人も残らず負傷して内地へ帰ったらどうだ。あとの将校と下士だけじゃ、いくさ[#「いくさ」に傍点]は出来んぞ。」
 声が室外へ漏れんように小さく囁き合った。
「やっぱし、怪我をして内地へ帰るんが一番気が利いてら。」
「こん中にゃ、だいぶわざと負傷してきた奴があるじゃろうがい?」大西は無遠慮に寝台を見まわした。「そういう奴は三等症だぞ。」
「三等症どころか、懲罰だ。」
 どう見ても、わざとの負傷と思われる心配がない、腰に弾丸《たま》が填《はま》っている初田が毛布からむく/\頭を持上げた。
「馬鹿云え、誰れが好んで痛い怪我をする奴があるか!」
 彼等は平和だった。希望に輝いてきた。
 また、繰り方を換えた。あした、あさって、しあさって、と。もうあと三日だ。と、新しい負傷者が、追いつこうとするかのように、又どか/\這入ってきた。その中にアメリカ兵と喧嘩をして、アメリカ兵を軍刀で斬りつけた勇士があった。
 それは彼等をひどく喜ばした。砲兵の将校だった。
 肩のさきをピストルでやられていたが、彼は、それよりさきに、大男のメリケン兵を三人ぶち斬っていた。
 中尉は下顎骨の張った、獰猛な、癇癪持ちらしい顔をしていた。傷口が痛そうな振りもせず、とっておきの壁の青い別室に坐りこんでいた。その眼は、頭蓋骨の真中へ向けられ、何か一つの事にすべての注意を奪われている恰好だった。
 やったのは、ロシア人の客間だ。そういう話だった。そこで、アメリカ兵は、将校より、もっと達者なロシア語を使って、娘と家族の会話を彼の方から横取りした。中尉は、癇癪玉をちく/\刺戟された。が、メリケン兵をやっつけるとあとからもんちゃくが起る。アメリカ兵は、やっつけられて泣き寝入りに怺《こら》えるロシア人や支那人のような奴ではない。それを知っていた。で、そのまゝ何気なく帰ろうとして、外套に手を通しながら、ちょっとテーブルの方を見た。と、そこに、新しい手の切れるような札束があった。競争に負けたジャップには鐚《びた》一文だって有りゃしないんだろう。――テーブルに向って腰かけたメリケン兵の眼には彼への軽蔑があった。
「それゃ、どこの札だね?」
 彼は、片方の腕を通しさしで、手を天井に突き上げたまま、テーブルに近づいた。
「お前のもんじゃないよ。」
 顔の細長いメリケン兵が横から英語で口を出した。も一人の方は、大きな手で束から二三枚を抜いてロシア人にやっていた。その手つきが、また見せつけんばかりに勿体振っていた。
「それゃ、偽札じゃないか!」
 彼は、剣吊りに軍刀をつろうとして、それを手に持っていた。
「でも、この通り、ちゃんと通用するんだよ。」メリケン兵は、また札を二三枚抜いてパチパチ指ではじいて見せた。
 彼は背に火がついたような焦燥を感じた。そして、心で日本刀の味を知れ! と呟いた。
 ――入院患者をつれてきた上等兵の話はそういうことだった。
 ついすると、ロシアの娘は、中尉がさきに手をつけていた、その女だったかも知れなかった。
「ほう、そいつは、俺も加勢するんだった。いつかは、そんなことになると思うとったんだ。」橇の上からピストルを放したメリケン兵のロシア語は、まだ栗本の耳にまざまざと残っていた。「眼のこ玉から火が出る程やっつけてやるといいんだ!」
 けれども青い別室の将校は、
「おれは中尉だ。兵卒とは違うんだ! 将校だ! それがどうして露助に分らんのだ
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