が上りだした。
栗本は、何か重要なことを忘れてきたようで、焦点のきまらない方に注意を奪われがちだった。すべてが紙一重を距てた向うで行われているような気がした。顛覆した列車の窓からとび出た時の、石のような雪の感触や、パルチザンの小銃とこんがらがった、メリケン兵のピストルの轟然たる音響が、まだ彼の鼓膜にひゞいていた。
腕はしびれて重かった。それは、始め火をつけたようにくゎッ/\と燃え立っていたが、今では反対に冷え切って義足のように感覚も温度もなかった。出血を止めるため傷の上方をかたく紐で縛りつけた。それで手の方へは殆んど血が通わなくなっているのだった。腕は鉛の分銅でも吊るしているように重かった。
「あゝ、たまらん。早よ軍医殿にそう云って呉れろ!」
着かえたばかりの病衣に血がにじみだした。
「辛抱しろ!」通りかゝった看護卒がちょっと眼をくれた。と、その眼が急に怖く光ってきた。そして血に染まった病衣をじっと見つめた。「何だ、仕様がないじゃないか! 早や洗濯したての病衣を汚しくさって!」
「あゝ、たまらん! あゝ、たまらん! おゝい! おゝい!」
呻きはつゞいて出てきた。
栗本は負傷することを望んでいた。負傷さえすれば、すぐ内地へ帰れると思っていた。そこには、母や妹や鬚むじゃの親爺が、彼の帰りを待っている。が、その母や、妹や、親爺は、今、どうしても手が届かない、遥かな彼方に彼とは無関係に生きているのだ。誰れも彼に憐れみの眼光を投げて呉れる者はなかった。看護卒は、たゞ忙しそうに、忙しいのが癪に障るらしく、ふくれッ面をして無慈悲にがたがたやっていた。昨日まで同じ兵卒だったのが、急に、さながら少尉にでもなったように威張っていた。
「誰れも俺等のためなんど思って呉れる者は一人も有りゃしないんだ。」栗本はベッドの上で考えた。「みんな、自分勝手なことばかりしか考えてやしないんだ!」
――彼は、内地の茅葺きの家を思い浮べた。そこは、外には、骨を削るような労働が控えている。が、家の中には、温かい囲炉裏、ふかしたての芋、家族の愛情、骨を惜まない心づかいなどがある。地酒がある。彼は、そういうものを思い浮べた。――俺だって誰れも省みて呉れん孤児じゃないんだ! それを、どうしてこんな冷たいシベリアへやって来たんだ! どうして!……彼は嘆息した。と、それと一緒に、又哀れげな呻きが出てきた。
「どいつも、こいつも弱みその露助みたいに呻きやがって!」見廻りに来た、恩給に精通している看護長が苦々しく笑った。「痛いくらいが何だい! 日本の男子じゃないか! 死んどる者じゃってあるんだぞ。」
右を見ると、よく酒保の酒をおごって呉れた上等兵が毛布の下に脚を立て、歯を喰いしばりじっと天井を見つめていた。その歯の隙間から唸る声が漏れていた。看護長の苦々しげな笑いに気がつく余裕さえ上等兵には無いようだった。
「自分がうるさいから叱っているんだ。」と栗本は考えた。「俺等のためなんど思っても呉れやせんのだ! どうしてこんなところへやってきたんだ! どうして、あんな引っくりかえされる列車に乗って行ったんだ!」
と、又溜息が出て、呻かずにはいられなくなった。
――遠いはてのない曠野を雪の下から、僅かに頭をのぞかした二本のレールが黒い線を引いて走っている。武装を整えた中隊が乗りこんだ大きい列車は、ゆる/\左右に眼をくばりつゝ進んで行った。線路に添うて向うの方まで警戒隊が出されてあった。線路は完全に、どこまでも真直に二本が並んで走っている。町は、まもなく見えなくなり、列車は速力が加わってきた。線路は谷間にかゝり、やがてそこを通りぬけて、また曠野へ出た。
雪は深く、線路も、草原も、道もすべてが掃きならされたようだった。そこらの林や、立木が遠い山を中心に車窓の前をキリ/\廻転して行った。いつか、列車は速力をゆるめた。と、雪をかむった鉄橋が目前に現れてきた。
「異状無ァし!」
鉄橋の警戒隊は列車の窓を見上げて叫んだ。
「よろしい! 前進。」
そして、列車は轟然たる車輪の響きを高めつゝ橋にさしかゝった。速力は加わったようだった。線路はどこまでも二本が平行して完全だった。ところが、中ほどへ行くと不意にドカンとして機関車は脚を踏みはずした挽馬のように、鉄橋から奔放にはね出してしまった。
四角の箱は、それにつゞいてねじれながら雪の河をめがけて顛覆した。
と、待ちかまえていたパルチザンの小銃と機関銃が谷の上からはげしく鳴りだした。……
日本軍の攻撃が厳重になればなる程、パルチザンの怨恨と復仇は鋭利になった。そして、それを慰むべき手段は次第に潜行的に、意表に出てくるのだった。
線路には、爆破装置が施されているのではなかった。破壊されているのでもなかった。たゞ、パルチザンは、枕木の
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