、ポケットに、片手を突ッこみ、光った眼で前方を見つめていた。じっとしていられない焦躁が、その身体全体に現れていた。妻と子供を見失ってしまった人だった。
「まあ、小出さん! おききなさい。うちの百々ちゃんはね……」
また、牝鶏がうるさく繰りかえしだした。
すゞは、中津らが彼女の家へ押し入ってきた時、俊と一郎と三人で隣の馬貫之《マカンシ》の棕梠《しゅろ》の張った床篦子《チャンペイズ》の下で小さくなっていた。それを覚えている。たしかに三人だった。寝台にも、寝具にも、その附近すべてに、支那人の変な匂いがしみこんでいた。
家の方では、大勢の荒々しい足音と、罵る叫び声と、破壊の騒音が渦を巻いていた。板をはぎ取るめりめりボキン。戸棚が倒れる轟音、硝子が割れる音、壁がどさる音。
恐る、恐る、彼女は床篦子の下から這い出て窓に近づいた。そして、眼だけを出して外をのぞいた。石畳の、無気味な小路に、青鼠服の兵士が、いっぱいうごめいていた。
彼女の手ミシンを小脇にかゝえて、向い側の小路へ消えて行くよごれた男があった。針金の鳥籠が踏みへしゃがれていた。
よく隣の馬貫之の細君にかくして貰ったものだ。
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