すが、一体、こゝだけに何人知り合いがあるんだい?」
「僅かしかありゃしねえでがすよ、顔を知っとる奴なら、三百人もありますべえか。」
「馬鹿野郎! 三百人が僅かかい……」
 こいつほど、人の懐中《ふところ》を見抜くことに機敏な奴はなかった。スリよりも機敏だった。その点、山崎自身も警戒してかゝらなければならなかった。支那で金を多額に懐中していることは、ズドンとやられる機会を、より多く持つことだ。
 陳は、蒋介石の北上と共に、だん/\はいりこんで来た南軍の密偵と、便衣隊について調べるため街に出かけたのだ。そこで、金を持っている人間から、金をくすねようとして、やりそこなったのか、それとも、便衣隊にあんまりひつこくつきまとって、あやしく思われ、発砲されたのか、今、不意に逃げ出して来たのだ。

     一四

 約、二時間の後、二人は、城東のS大学へ洋車を走らしていた。
 その大学は、日本軍と、南軍の衝突の際、盛んに活躍した便衣隊の本拠となったところである。日本の兵士は、その便衣隊に、さんざんなやまされた。それは、パルチザンと同じだった。彼等はすきをうかがって躍り出したかと思うと、すぐ安全な地帯へ逃げこんでしまった。
 三千人の将卒が、総がかりで、その便衣隊を追っかけまわした。しかし、一人をも本当の奴を捕まえることが出来なかった。
 彼等は、普通の良民と、同じような服装をしていた。兵士には、支那人なら、どれもこれも同じように見えた。安全地帯はアメリカ人の学校だった。
 山崎は、陳から、そうらしいという話をきいた。そして、その便衣隊の巣へ這入りこんで見とどけよう、と決心した。陳長財の報告は、七割まではあてにならない。しかし、これだけは、本当だ、という直観が山崎にした。彼は、それを確実に突きとめて、今夜中に電報を送ろうと思った。それが出来れば彼は、儕輩《せいはい》を出し抜ける。それからもう一ツ、言葉も、服装も、趣味も、支那人と寸分違わない。彼は、どこへ行ったって、バレる気づかいがない。と思っていた。それを、確実に試験して、自信をつけて置きたかった。
 それから、なおもう一ツ、こういう際どい芸当は、彼には、むしろ快楽となる。――これは、一生のうちの、俺の自慢話の種の一つとなるに相違ない、と彼は思った。
 敵の陣地へ、しかも、はしっこい、便衣隊の本拠へ乗りこんで行く。これは一生のうちの、誇るに足る、業績の一つとなるに違いない!
 俺の一生は、まだこれからだ。まだ/\これから、本当の仕事をやるんだ。人間は、三十代になっても、四十代になっても、なお、未来に期待をかけているものである。が、山崎は、この時、生涯に於て、今、本当の実の入った仕事をやっているのだ。未来ではない、現在だ! と感じた。
 陳長財は、射撃されたいきさつを説明した。それから、
「こんな暴虎馮河《ぼうこひょうが》の曲芸は、やめとく方が利口じゃないでがすか。」と、止めた。「今度ア、なかなか奴らの威勢がいいんですよ。」
「いや、俺れゃ、行くんだ。」と、山崎はきっぱり云った。「洋車を呼べ。奴らの威勢がよけりゃよい程こっちは、行ってたしかめてこなけゃならんじゃないか。」
「ズドンと一発やられたあとで、来なけゃよかったと、後悔したって、もう追っつかねえでがすよ。」
「分ってる!」
「わっしゃ、命がけでやる仕事であるからにゃ、ウンとこさ金がほしいなア。目くされ金じゃ、のっけから真平だ。」
「金は、いくらでも出すと云ってるじゃないか。うまく行きさえすりゃ。」
 山崎は、さっきから学生服に着かえていた。陳も学生服を着た。

 礫《こいし》の多い、凸凹のところどころ崖崩れのある変な道で、洋車は歩くよりも遅くしか進まなくなった。二人は車をおりた。平生は、淋しい、大学に近い郊外の闇の中に、何か動く人の気配が感じられた。
「大丈夫かね。」陳は囁いた。
 山崎は、自分でちっとも怖いとは思わなかった。それだのに、脚がひどく力がなく萎《な》えこんだ。脚だけがどうしたのか、つい、五六間も歩いたら、へたばりやしないか、彼は、それを危ぶんだ。
「呀怎※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]着了《ヤソンモチョラ》、※[#「にんべん+爾」、第3水準1−14−45]《ニ》!(おい、どうしていたい。……)」
 ひょっと、狭い道を向うからすれ交るとたんに、人かげが声をかけた。が、中途で、人違いだと気づいたらしく、言葉を切って、疑い深げにあとを見かえした。
「蠢東西《チュントンシ》! (馬鹿野郎!)」陳長財は、振りかえりもせずに呶鳴った。
 道の附近の、身の丈ほどの灌木の繁っているところにも、なお人が、動いている気がした。夜気がいくらか寒くなったようだ。
 第一校舎の脇を通りぬけた。向うのアカ
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