跛をひくような蹄《ひづめ》の音がひびいた。跛の数は多い。
「そら、やってきだひた。やってきだひた。」
 と、小山は云った。そして音響のくる方へ歩きだした。
 やがて、何分間かたつと、せいのひくい、毛並のきたない、支那馬にまたがった白露兵がぐったりして、長靴を、地上に引きずりそうに、だらりと垂れて、薄暗い街燈の光の中に姿を現わした。
「こいつら、支那兵よりゃ、よっぽど強い手あいなんだがなア。」
 小山は惜しげに云った。
 馬を乗り斃してしまった連中は、跛を引きながら、脚をひきずっていた。それは、とぎれ、とぎれに、遠く、駅前通りの方にまでつゞいていた。途中でどっかへまぎれこんでしまった者もあると云う。
 月給の不渡りと、食糧の欠乏と、張宗昌の無理強いの戦闘に、却って戦意を失ってしまった。彼等は、泰山を越して逃げ帰った連中だ。そのうちの一部だ。塩を喰わされた蛭《ひる》のようだった。へと/\で、考えることも、観察することも、軍刀を握りしめる力もすっかり失って、たゞ惰性的に歩いている。立ち止まったら、もう、そのまゝそこでへたばってしまいそうだ。
「こいつらは、支那兵よりゃ、よっぽど強い手あいなんだがなア。」小山は繰りかえした。「あいつらが逃げて来るようじゃ、こゝが陥落するのも、もう時間の問題だ。」
 その時、向う側のアカシヤの並木の通りで、ブローニングの音が一発して、誰れかが、乱雑な白露兵の列を横切って、こちらへとぶように走り出してきた。つゞいて、もう一発、銃声がした。山崎と、小山は、思わず立止まって、はっとした。逃げる男が二人の方へ突進してくる。従って銃口も二人が立っている方向へむけられている。と、瞬間に感じた。
 疲憊《ひはい》しきった白露兵は、銃声にも無関心だった。振りむきもしなかった。
 突進して来る男は、すぐ二人の前に来た。山崎は、眼のさきへ来た時、それが、陳長財《チンチャンツァイ》だと気づいた。
「なに、まご/\してるんだ。馬鹿野郎!」彼は、いまいましげに怒鳴った。
「何をしてやがったんだい、今までも!」
 が陳は、敏捷に山崎の前をとびぬけて、猿のように、家と家との間の狭い、暗いろじ[#「ろじ」に傍点]へもぐりこんでしまった。
「馬鹿野郎! 本当に仕様のない奴だ! 畜生!」
「知ってる奴でしゅか?」
 小山は訊いた。
「あいつですか、あいつは、手におえん奴ですよ。使ってる奴ですがね、滑稽な奴で、二時間もどっかでぐず/\してやがって……」

 陳長財は、現在、山崎にとって、ごく必要な人物だった。彼は、もと、上海の碼頭《はとば》苦力《クリー》だったという話である。中津が、青島から帰りに、周村でつれてきて、呉れてよこした男だ。
 中津は陳を呼んで、魚心があれば水心だ。それ相当のむくいをしてやる。が、俺れと、俺れの兄弟を裏切るような行為をしくさったくらいにゃ、生かしては置かないぞ。お前だけじゃない、お母アをも生かしちゃ置かないから、と数言を費した。
「こいつは昨日まで南軍の密偵をつとめたかと思うと、今日は、早や、こっちへ寝がえりを打つような奴なんだから[#「なんだから」は底本では「なんだからら」]。」と、中津は、山崎に注意した。「ちびり/\しか金をやらないのに限るんだ。前金でも渡したら、もう、手にとれなくなっちまうぞ。君が、しょっちゅう、こいつをキュウキュウさしとく必要があるんだ。」
 それから、又、
「こいつの云うことを、まるきり信用してかゝっちゃ駄目だよ。――それゃ、云うまでもないこっちゃが、支那人は金にさえなると思ったら、どんなありそうなことでもねつ[#「ねつ」に傍点]造して持って来る奴なんだから。」
「うむ、分ってる、分ってる。」と、山崎は答えた。
 陳は、独逸から送った武器の送り状とか、それを荷役している現場の写真、弾薬を受取った受取り、など、そんな重要な証拠物件を、どこからか手に入れていた。云いつけると、外交部から交付される筈の、外国へのパスポートまで、ちゃんと、印まで間違いのない印を捺《お》して拵《こさ》えてきた。だから、日本でパスポートがおりない者でも、ここで、支那人に化けて、支那の名前をつけさえすれば、陳の手でロシヤへのだって作ることができた。間違いのない筆で、領事館の裏書までしてあった。面白い。
「また、やってるな!」
 山崎と歩いていると、ふと、見知らぬ男が、陳に、にやにや笑いかけて行きすぎることがある。一日に、二人や三人は、そんなえたいの知れない奴に出会した。この男は、どんなところへでも頸を突きこんでいるらしかった。
「今のは何者だい。」
「あれですか、なに、あいつは、ジャンクに乗ってた時、一緒に働いてた船方でがすよ。あれで、今なか/\金をしこたまこしらえてるんでがすよ。」
「貴様、しょっちゅう知り合いに出会
前へ 次へ
全62ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒島 伝治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング