にも、その魔手をのばさんとする状態にある。山東は満蒙の障壁として、又、重大なる価値を有するものである。山東ありて、満蒙も安全たり得るのである。況んや山東が、その地理的優越に於て、その軍需的価値に於て、その黄河流域無限の富庫を後方地帯に抱容する点に於て、我等は国防上、国民生活上、永久にこれを勢力圏中より逸し去ることは出来ない。米国資本家の如きは、早くも黄河の氾濫地帯が棉花栽培に適することに着目し、調査の歩を進めている。もし、この地に棉産を得るとせば、日本は米国より棉花の輸入を仰がずとも済む時節が来るかもしれない。日本にして、山東の主人公たる優越的地位を失うならば、日本は将来、鉄と石炭との独立を全うすることが出来ない。のみならず、日本は北支那より退却し、退嬰自屈《たいえいじくつ》の政策の下に、国運の日に淪落《りんらく》に傾くことを如何ともなし能わざるに至るであろう。支那大陸広しと雖も、我が経済的勢力の絶対に支配する地域は、満蒙を除けば山東あるのみである。日本は過去十余年間、巨額の資本と高貴なる犠牲(日独戦争)を払いて、山東の資源を開発し、現に邦人の投資額約一億五千万円に達する。我等は、我が同胞が、粒粒辛苦の余に開拓したる経済的基礎を擁護し、発展し、確保することは、当然と云わねばならぬ。」(同上書三十一頁より三十二頁)
山崎は、勿論、こういうことは知り悉《つく》していた。そこへのアメリカの策動が、どんな意味を持っているか、それは日本人なら、云わずとも、すぐ神経にピリッと来る筈だ。
彼は、同僚を出し抜こうと野心した。
こういうことは、もう本になって出ていることだ。誰れにでもしれ渡っていることだ。しかし、この土地に於ける、もっと具体的な事実については誰れも知る者がなかった。そして、それが重要なことだ。
彼は、最近中津から手に入れた支那人の陳長財《チンチャンツァイ》を使って、そこへもぐりこもうと計画していた。
一三
夜は暗くなってきた。
人の通りは疎《まば》らになった。
しかし、この星がきらきら瞬いている夜空の下の一角で、騒がしい乱が行われている。その騒音がどこからともなく、空気を泳いで伝わって来た。
山崎は、アカシヤの葉がのび、白い藤のような花がなまめかしく匂う通りを、気|慌《ぜわ》しげに往き来した。彼は、不機嫌だった。不機嫌なのは、一緒に出かける筈の陳がまだ帰ってこないからだ。
アカシヤの樹の下には、カギをつけた長い竹竿で、子供達が、白い藤のような花を薄暗い街燈にすかして、もぎ取ろうと肩が凝るほど首を上に向けきっていた。その子供達は、よう/\垂れだした花を昼間から、夜にかけてあさっていた。彼等は、その花をむしり取って食べるのだ。
枝がカギにひっかけられて、ポキンと折れていた。
「枝まで、折っちまっちゃア、駄目じゃないか!」
ひもじい子供たちは、花を食って、おなかをこしらえる。
「お、おい、山崎(しゃき)さん!」
幾分びっくりした叫声に、ほかのことを考えていた山崎は、ぎくっとした。洋車をとめると、福隆火柴《フールンホサイ》の小山がおりてきた。工場内で、工人を慄えあがらし、えらばっている小山は、通りへ出ると顎が落ちて、燐くさく、芯が頼りなげに、ひょろ/\していた。
「山東軍は散々な敗北でしゅよ。」小山は、サシスセソがはっきり云えなかった。骨壊疽《こつえそ》で義歯を支えていた犬歯が抜け落ち、下顎の門歯がとれてしまったのだ。「あの勇敢なコシャック騎兵までが逃げてきまひた。」
他人事でないという小山の意気込み方である。
「この様子では、これゃ、どうしゅたって、共産主義がこっちまでやってきましゅぞ。」真に大事だという話し振りで、「早よ、内地へ軍隊をくり出しゅように云ってやって貰わなけゃ、財産(しゃん)や工場だけじゃない、頭やチンポまで引きちぎられてしゅまいますぞ!」
「ロシヤ兵は、今、退却してきたんですか?」
「ええ、ええ、やっぱし、(し[#「し」に傍点]がうまく云えなかった)郭店の方から、歩いてやって来たんだ。あんまり馬を馳《はし》らせしゅぎたもんだから、半分は、馬が途中で斃《たお》れてしゅまったんだそうだ。――今、やって来ましゅよ。これゃ、どうも、こんな風じゃ、どこかで、だいぶ蒋介石に尻押しをしてる奴があるんだな。わしゃ、どうも、そう睨む。」
「今夜中に、さぐっちまって、電報を打たなけゃ、ほかの奴等に先を越されるんだ!」「陳は、何をしてやがるんだろう。」彼はいらいらした。「もう、どうしたって、今夜中だ。明日の晩となれば、おそい。誰か、外の奴にしてやられちまう。」
状勢がひっ迫するに従って、五六人の彼の同僚が、方々から、ここをめがけてはいりこんできていた。
二|馬路《マル》通りに、乱れた、元気のない、
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