はねとんだ。
中津が外から声をかけて門のかんぬきをボーイの王錦華《ワンチンファ》にはずさして、中庭の飛び石を、ひょこひょこやって来る時、窓からそれを見て、やはり、チンバ、チンバと、ぴんぴんはねて笑った。中津は、それをきいても、にこ/\していた。
「ねえ、おじちゃん、どうしてそんな脚でいくらでも人を斬ったり、はつッたりすることが出来るの?」
とうとうある日、俊は相手の気持を損じやしないか、顔色を見い見い、茶目らしい話しッぷりで切り出した。
「斬るんはこの脚じゃねえぞ、ピストルも刀も、この手だ。この手が使うんだ。」
だぶ/\の支那服の袖から、太短かい指を持った毛深い腕がのぞいていた。
「だって、おじさんのようにひょこ/\歩いていた日にゃ、斬るんだって、うつんだって人が逃げッちまうんじゃないの?」
俊の声は、なごやかに笑いを含んでいた。が、眼は、犬に立ちむかった瞬間の猫のように、緊張して相手の顔に注がれていた。
「なあに、これだって、いざとなりゃ、お前なんぞよりゃ早いんだぞ。」
「そう。――おじさん。どこで怪我をしたん?」
「どこだって――それゃ、もう遠い遠い昔だ。お前らまだ、親爺さんの睾丸の中に這入っとった時分だよ。」
ある時は、山寨の馬賊の仲間に這入り、ある時は、奉直戦争に加わり、又、ある時はハルピンの郊外に出没して、ロシア人の家を荒し、何人、人を殺したか数しれないこの不思議な、ゴロツキも、二人の妹には、おかしな、そして少し滑稽なおじさんにすぎなかった。
彼は、張宗昌と共に戦線をかけめぐったり、北京に赴いたり、何万元かの懸賞金が頸にブラさがっているその頸の番をしたりするほか、二人の娘を相手に辛気くさいカルタを取った。麻雀を教えてやった。支那語の一二三を何十回となく、馬鹿のように繰りかえした。
彼は、この家族の中に溢れている内地の匂いをなつかしがり、利己的にそれをむさぼっているかのように見えた。
妹が寝てしまって、父親と、おふくろと、彼と三人きりになった。幹太郎は云い出した。
「長さんは、どうしても、おかしいな。――すゞに気があるんですよ。……それから、お俊にも一寸気がある。」
「馬鹿。」竹三郎は風を吹くように笑った。「中津は、俺と同い年だから、もう五十三になるんだぞ。それがたった、十七や八の小娘をどうするもんか。」
「いや、いや。――這入って来てから帰るまで、あいつは、何もほかのものは見てやしませんよ。すゞと、俊ばっかし、顔に孔があく程見つめに見ているんですよ。――俺れゃ、ちゃんと知っとる。」
「それには、私も気がついています。」母が内気に口を出した。
「それ、そうでしょう。きっと、あいつ気があるんですよ。」
「馬鹿、――五十三にもなって、人間が、自分の子供のような娘をどう思うもんか。」
「でも、男は、年がよる程、若い娘がよくなるという話じゃありませんか。それに、あの人は、まだ独身者ですよ。」
「馬鹿、馬鹿! 何てお前ら、邪推深いんだね。――中津は俺のえゝ朋輩だぞ。俺れゃ、あいつの気心をようくのみこんどる。あいつは、そんな義理にそむいた、見っともないことをやらかす男じゃないよ。」親爺は四五年前から中津を知っていた。
だが、幹太郎の疑問は誤っていなかった。
チンバがやって来ると、おかしがって、家の中をはねとんでいたすゞ[#「すゞ」に傍点]が、門の外から王《ワン》を呼ぶ中津の巾《はば》のある押しつけるような声に、耳の根まで真紅に染め、どこかへ逃げかくれだした。
中津の視線は、鋭く、燃えさかっていた。その視線に出会すと二十のすゞ[#「すゞ」に傍点]が堪えきれないばかりでなく、俊や、おふくろまでが、心臓をドキリと打たれた。
中津はひげ面のひげを青く剃り、稍々《やや》ちゞれる癖のある、ほこりをかむった渦まける髪をきれいに梳《くしけず》って、油の臭いをプンプンさしていた。
終日家につかっていた。この馬賊上りの、殺人、強盗、強姦など、あらゆる罪悪を平気でやってのけた鬚づらの豪の者が、娘々したすゞ[#「すゞ」に傍点]に少なからず参っている有様は、実際不思議だった。彼は五十三の老人とは見えなかった。彼は、おぼこい二十歳の青年のように、少女の魅力に悩まされ切っているところがあった。
ある朝、馬貫之《マクアンシ》の犬の『白白《ぺいぺい》』が火のついたように吠えた。
幹太郎は、それで眼をさました。すゞが起きかけたようだった。
犬は燃えるようなやかましさで吠えつゞけていた。暫くしてすゞは窓をあけに立った。と、緊張した足どりで、兄の枕頭へかえってきた。
「また、たアくさん、領事館から来ているよ。」
彼女の声には、真剣さがあった。そして、どっかへ身をかくしてしまい度《た》そうだった。幹太郎は、はね起きた。
周囲は、厳重
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