てしまっていた。巡警は、二度の要求が満たされると、掴み上げた乳鉢を、またもとへ戻した。そして「シェ、シェ」と帰って行った。
竹三郎は胸をなでおろした。
この日から彼は、たび/\、味をしめた巡警等に襲われるようになった。少しずつ買いに来るヘロ※[#「やまいだれ+隠」、第4水準2−81−77]者からかき集めた金は、右から左へ巡警が持ち去った。
彼の顔色は、薬のために、ますます失われだした。手足の顫えは一層ひどく、はげしくなった。もう全然※[#「やまいだれ+隠」、第4水準2−81−77]者となり了ってしまった。一日でも、ヘロインがなければ、彼は、時を過すことが出来なかった。
一一
戦争について、不安な風説が、だんだん拡まって来た。
退却をつづけた張宗昌は、孫伝芳の部隊と協力して蒋介石にあたった。
どの兵営からも殆んど全部の部隊が戦線へ出はらってしまった。留守の兵営は、僅かな兵士に依って守られていた。
青黒い兵営から、布団や、床篦子《チャペイズ》や、弾丸が持ち出された。そして、街で、金に換えられた。ホヤのすすけた豆ランプも、卓子《チオズ》も、街へ持ち出された。
留守をまもる兵士のしわざだ。
彼等は、捲きあげて水をつる井戸の釣瓶や塀の棒杭や、茶碗や、茶壺を持ち出した。しまいに残ったのは、持って行く訳に行かない兵営の家だけになった。と、彼等は、その家についている、窓硝子や、床板をはずして街をホガホガ持ち歩きだした。そんな姿が、チラホラ見えた。――彼等の、いくさ[#「いくさ」に傍点]の強さはこれで分った。
竹三郎の家はすゞが帰ると、切り立ての生花をいけたように、清新になった。
「青島には巡洋艦が一隻と、駆逐艦が四隻も碇泊してるのよ。銃をかついだ陸戦隊があがってたわ。ズドンと大砲をぶっぱなしたら、陰気くさい支那人が『デモだ』なんて云ってるのよ。」
すゞはこんな話をした。
一郎は、すゞを、親のように、「かあちゃん、かあちゃん。」ともとりかねる言葉でよんだ。
幹太郎は、今頃、とし子が居たならば! と考えるともなく、なつかしがった。とし子は、※[#「やまいだれ+隠」、第4水準2−81−77]者の親爺や、その親爺を盲目的に尊敬する義母を、むきつけに、くさしていた。支那でなけりゃ、内地へ帰っちゃ、親爺もおふくろも、生存さえ出来ない。廃人だ。とし子に云わすとそうだった。――その両親がよくくさされていたことさえ、彼には、今は、なつかしいものに思いかえされた。
すゞは、口に出して云いはしなかったが、こんな彼の心持を諒解していた。彼女は、そのために、嫂にもう一度もとへ戻って貰うのではなく、兄をえらく[#「えらく」に傍点]して、「これ見たか!」と、とし子を見かえしてやりたい、そんな気持を抱いていた。彼女が親爺の嫌な仕事を懸命で助けるのも、そんなところからきていた。その心持が、又、幹太郎に分った。彼は、自分は、所謂、えらくなりたい希望など全然持たないことを妹に納得させる必要があると考えた。殊に、ヘロインを売って、無茶な金を取ろうなどとは思ってもいないことを示す必要があると考えた。
だが、二人の兄妹の気持は、不幸に際してよく起るように、しっくりと一つに合っていた。すゞは二十だった。そして妹の俊は十七だった。俊は、まだ、汚いものが美しく見える、なんでもないことが面白、おかしくってたまらない――そんな年頃だった。二人とも、その体内には、健康で清純な血液の循環を妨げる一つの病菌も、一ツの傷もないように見えた。
着物の着かたや、髪の結び方や、断片的な方言まじりの話しっ振りの中に、まだ、内地の匂いが多分に匂っていた。それは、ほかの、支那で産れ、支那に於ける日本人の学校で育った娘と比較すればすぐ分かった。
すゞが帰ると、間もなく、青島で彼女を貰い受けるため骨折った中津が、足繁く出入りするようになった。バクチ打ちで、のんだくれで、味方にしても、こっちの懐におかまいなしに食い荒されて厄介だし、敵にまわせばなお怖い、どんなことをやり出されるか分からない男が中津だ。
彼は日露戦争でびっこ[#「びっこ」に傍点]になっていた。歩くとき、身体全体がヒョク/\した。目立たない、ジミったれた風彩をしていた。新しいドンスの支那服でも中津が着ると、ホコリにまみれて汚れているように見える。
何故、こんな男に睨みがきくのか、幹太郎は、一寸解せなかった。彼は、土匪にさらわれた日本人の※[#「女+邦」、209−上−1]票《ホウヒョウ》(金を取るために捕えて行く人質)を取りかえして来たことも一度や二度できかない。敵に対する残忍なやり方では、多くの話種を持っていた。
幹太郎の二人の妹は、中津が帰ると、チンバ、チンバと、おかしそうに笑いながら、家の中をぴん/\
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