な肉体も、極めて短時日の間に、毒素に侵されてしまった。
工人の出入は、はげしかった。一人が這入って来ると、一人が追い出された。それが度々繰り返された。そのうちに、一人の採用によって、工場中の支那人が、恐怖と不安に真蒼になることに幹太郎は気がついた。
それは、解雇されそうな、ヒヨ/\の老人や、睨まれている連中だけじゃなかった。どうしても工場になくてはならない熟練工や、いたいけない、七ツか八ツの少年工や少女工までが、蒼くなって、どんよりとした、悲しげな眼で、生殺与奪の権を握っている日本人をだまっておがむように見るのだった。
賃銀支払は、幹太郎がいくら懸命に話したところで、内川や小山は容れるどころじゃなかった。
「君は青二才だが、チャンコロのように雄弁だね。」
小山は、そばに内川がひかえているのを意識しながら、皮肉に、鼻のさきで笑った。
「賃銀は、こっちから、めぐんでやる金じゃないんですよ。」と幹太郎は、喧嘩をするつもりで云った。「支払うべき金ですよ。労働は一つの商品ですからね。買ったものの代金を払うのは当然じゃないですか。」
いくら人情に訴えたところで、きくような彼等じゃなかった。
「ふふむ、君は一体、支那人かね、ロシヤ人かね、――過激派の。」
「日本人ですよ。」
幹太郎は、狂暴なものが、一時に、胸のなかで蠢《うごめ》くのを感じた。この二人に対してなにかしてやらねばならない!でなければ、胸のなかの苦痛は慰められない。だが、彼のやろうと思うことは、あまりに、結果がはっきりと分りすぎていた。
「日本人なら、日本人らしくしとり給え!」と小山は云った。「理屈ばかりじゃ、マッチは出来ねえんだから。」
「工人を見殺しにしちゃ、なお、マッチは出来ねえでしょう。」とうとうこらえていたものが、爆発してしまった。「泥棒! バクチ打ち!……」
彼は、横の椅子を掴みあげた。ひょろ/\しながら、それを振り上げた。
だが、内川は、豹のように立って来て、その椅子を取り上げた。
「馬鹿! 馬鹿! 何をするんだ猪川! 何をするんだ!……」
幹太郎は扉の外へ押し出されてしまった。バタン! と扉が閉った。
「実際、あいつは、若いからね。」と、内川は緊張しきって、眼が怒っている小山に笑った。
「仕方のない奴だ。わしも、あいつのおふくろが気の毒だから、あれを使っているんだ。あいつの親爺はヘロ中だし、あいつはあいつで生意気だし、役に立たんが、ただ、あれのおふくろが気の毒でね……」
七
黄風《ホワンフォン》が電線に吠えた。
この蒙古方面から疾駆して来る風は、立木をも、砂土をも、家屋をも、その渦のような速力の中に捲きこんで、捲き上げ、捲き散らかす如く感じられた。太陽は、青白くなった。人間は、地上から、天までの土煙の中で、自分の無力と、ちっぽけさに、ひし/\とちゞこまった。彼等は、いろ/\なことを考えた。
支那、支那、何事か行われているが、収拾しきれない支那!
ここの生活はのんきなようで、一番苦るしい。つらい!
人間は、自分の通ってきた、これまでの生活が疵《きず》だらけであることを考えた。――ある者は、それを蔽いかくして生きて行かねばならぬと決心した。ある者は、自分で、自分の為したことにへたばった。
俊だけは、憂鬱に物を考える人の中で、一人だけ、何も考えず、何も思わず、三歳の一郎をあやして、ふざけていた。
一郎は、「テンチン」「テエアンチーン」など、支那語の片言をもとりかねる舌で、俊に菓子を求めた。
「一郎は、まるで、トシ子さんそっくりだわ。……それ、その天向きの可愛い鼻だって、眼もとだって、細長い眉だって」俊は嬉しげに笑った。彼女は、去った嫂《あによめ》と一番の仲よしだった。
「天下筋の通っている手相までが、そっくりなんだわよ!」
俊は、嫂を去《い》なしてしまったことに不服を持っていた。その不服の対照は母だった。母は最初だけ、珍らしい内は、下にも置かないマゼ[#「マゼ」に傍点]方をする。が、暫らくして、アラが見え出すと、それからは、徹底的にクサスのだ。俊は、それが大嫌いだった。
彼女は、編んでやった一郎の毛糸のドレスの藁ゴミを指頭でツマミ取った。そして、倒れないように、肩を支えて子供を歩かしながら、兄の方へつれて行った。
母は、工場が引けて帰る幹太郎を待ちかねていた。すゞがいないことは彼女を淋しがらせた。
「何ですか?」
母の顔はそわ/\していた。
「一寸、油断しとったら、早や、王《ワン》が黙って、『快上快《クワイシャンクワイ》』を、持ち出して売ってるんだよ。」
「ふむ。」
「こないだだって、靴直しに三円持って行って、あれで、一円くらいあまっとる筈だのに自分で取りこんどるんだよ。」
「ま、ま、知らん顔をして黙っときなさい。」
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