と、幹太郎は言った。「抽出しへは鍵をかけとかなけゃ!」
第三号に侵され切った、竹三郎は、もうそんなことに神経が行き届かなくなってしまった。快い薬の匂いが体中に浸みこんでくる。彼は、毛のすり切れた、そして、いくらか、白らけた赤毛布の上に高い枕で横たわって、とけるように、まどろんだ。たゞ、自分の恍惚状態を夢のようにむさぼるばかりだ。ほかの一切にかゝずらわなかった。
幹太郎は、俊が歩かして来た一郎を抱き上げた。
「こないだ、土匪が三人、捕まったんだってよ。」
「じゃ、また、さらし頸ね。」
俊は嬉しげに笑った。彼女は徳川時代に於けるような、この野蛮なやり方に興味を持っていた。
「ところが、その土匪の一人は、もと愧樹《クワイシェ》の兵営に居った山東兵の中士だそうだよ。そいつが四人分の弾丸や鉄砲を持ち逃げして土匪の仲間入りをしていたのを捕まえて来たんだって。」
「愉快ね、軍曹が銃を持ってって土匪になるって、愉快ね。――面白いじゃないの、気みたいがいゝじゃないの。」
「たいがい、毎日、何か、乱が起るなア。」母は形だけの仏壇へ、燈明《とうみょう》をあげていた。その仏壇の下の抽出しは、第三号の、秘密なかくし場所だ。「いっそ、すゞに、南軍がこっちへやって来るか来んかはっきりするまで、内地に居るように手紙を出したらどうだろう。あれだって可哀そうだもの。」
「ええ」幹太郎が一寸考えた。「しかし今から手紙出したって間に合わんでしょう。……ひょっと、日光丸に乗っとるとしたら、今日あたり入港しとる日ぐりだから。」
「そうかしら。」
親爺は、かなり久しく赤毛布の上でまどろんでいた。ぶ厚い、すず黒い、唇からは、だらしなげによだれが、だらだら毛布にたれた。これは、恍惚状態に入った時、いつも現われる現象だ。
「お休み! お休み! ゆっくりお休み!」俊は、その父を指さして、おきゃんな声を出した。
この時、一寸でもその、まどろみの邪魔をすると、父は、火がついたような狂暴性を発揮する。幹太郎も、母も黙って、大きな音さえ立てぬように努力した。
親爺の皮膚は、薄黒く、また黄色ッぽく、白血球は、薬のために抵抗力を失って、まるで棺桶に半脚突ッこんだ病人のように気息|奄々《えんえん》としていた。
「お休み! お休み! ゆっくりお休み!」
やがて親爺は死ぬだろうと、幹太郎は思った。自分では、滅亡へと急ぎつゝあるのだ。
彼は、親爺が故郷を追われたことを思った。
親爺のような人間が、植民地へ来て、深みへ落ちてしまうのは、四人や五人ではきかないだろう。
いや、幾人あるかしれないだろう。ここは、みな、郷里に居づらくなった者ばかりが来るところだ。食い詰めて頸が廻らなくなった者か、前科を持っている者か、金を儲けて、もう一度村へ帰って威張りたい、俺を侮辱しやがった奴を見かえしてやろう! と、発憤した者か、そして朝鮮や満洲に渡って、そこでも失敗を重ね、もっと内地とは距った遠い地方へ落ちねばならなくなった者がやって来るところだ。
竹三郎は、九ツの幹太郎と、五ツと、三ツのすゞと、俊を残して満洲へ渡った。
村の背後には、川を隔てて高峻な四国山脈が空を劃《くぎ》っている。前面は、波のような丘陵の起伏と、そのさきの太平洋に面した荒海がある。幹太郎は、その村で、ほかの子供たちから除《の》け者にされながら少年時代を過した。太陽は、山に切り取られた狭い、そして、青い/\、すき通った空を毎日横ぎった。春には山際の四国八十八カ所の霊場の一つである寺の鐘がさびた音で而もにぎやかに村の上にひびき渡る。遍路が、細い山路を引っきりなしに鉦をならして通る。幹太郎は、そこで、小さい手を受けて遍路から豆を貰うのにさえ一人ッきりで、皆からのけ者にされた。理由は、親爺が、ほかの子供達のお父さんである村会議員を、確証がないのに、涜職罪として罪人に落そうとたくらんだ。ということからきていた。
だが本当に確証がなかったか、本当に、親爺がほかの村会議員を罪に落そうとたくらんだか!
小学校の新築が落成した。その年である。竹三郎は村会議員に当選した。自作農で小作農も兼ねている。そんな人間は、村会議員どころか、衛生組合の伍長の資格さえないもののように思われていた。
そんな頃である。親爺は、誰の前でも恐れずに、ものを云い得る口を持っていた。物事の裏を衝く眼を持っていた。彼が村会へ頸を出すのは、ほかの議員達は一人として喜ばなかった。
――一カ月ほど前、親爺は、門を建てた。用材に山の樹を伐った。そして引き出しを手伝ってくれた近隣の者と、義兄や甥に酒を振る舞った。それが悪かった。それを見ていた『松葉屋』が、買収手段だとして、密告した。用材出しを手伝ったお祝いのしるしに、おみき(酒)を振る舞うのは一つの習慣だ。それだのに、そ
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