もがくほど喰いこむ。樹の工人は、息がきれそうに喘いだ。
「私は、生意気者で、……悪者で……ございましたんです。……」喘ぎ喘ぎ風のように、工人は、白い泡と一緒に言葉を吐いた。
 ――これは、一度兵士達が見つけて以来、勤務について、寄宿舎にいなくなった留守を見はからって敢行された。特務曹長からの注文だったのである。兵士は南軍接近の知らせに、警備手配に忙殺されていた。
 工場の空気は、幹太郎を忌避し、敬遠した。幹太郎自身も、それを感じないではいられなかった。
「やっぱし俺は、お払い箱だ! あの態度は、俺からトットと出て行けと云ってるんだな。」
 支配人と小山にまつわっている不思議な、ばつの悪さを感じながら、彼は考えた。
「馘《くび》にならんさきに、自分から、出て行けッと云うんだな。」
 彼はその原因が、親爺の支那人なみのヘロ中と、王洪吉の賃銀を代って要求してやったことにあるのを知っていた。
 彼は、時々、事務室をぬけ出した。請負作業の出来高を調べるものゝように、仕事場に這入った。殊更、注意深く、工人達を観察した。
 稍《やゝ》、うつむきこんで軸列器をがちゃがちゃ鳴らし、木枠に軸木を植えつけている于立嶺《ユイリソン》は、おどおどして、あたふたと頭をさげた。
「びくびくすんなよ。」
「はい、はい。」
 傲慢で、ツンとした于立嶺が、全く、おびえきった子供のように変っていた。
「やっぱし、薬がきくんだな!」
 小山の、軍隊の駐屯に対する感謝と、自分のやり方に対する、得意さは、一日々々顕著になっていた。リンチが度重なるに従って、工人の挙動がおとなしくなってきた。社員に、おべっかを使うように、ペコペコ頭を下げた。
「畜生! こんなに卑屈に落ちぶれたって、やっぱしコツコツと働かなきゃならないのが工人だ。――動物! こいつらは、全く、睾丸を抜き取られてしまった、おとなしい動物だ!」
 しかし、幹太郎は、自分たち自身も、反抗もなにもよくしない、おとなしい動物だと感じた。
 彼には、親爺がいつまでも留置場から出られないことも、彼等の家が何ものにも保護されず、工場が、ひたすら堅固に守られることも、食えない工人達の当然すぎる賃銀支払の要求が、拒絶せられ、その上、一人々々が殴られることと同様に、すべて、ある一ツの原則から、出ているように感じられた。
 それは無数の小さいものを犠牲にして、大きい奴だけが肥大して行くことだ。親爺は昔、学校の建築費を、町の芸妓へ注ぎこんだ村会議員をあばこうとした。そのことのために、却って坂の上から、突き落されてしまった。そして、転落がはじまった。
 ――最後の、もうそれ以上落ちるべき段階がないところまで、落っこちてしまわなければ承知されはしない! と、彼は思った。これは、人生の運とか、マンとかいうものじゃない。大きいやつが、かばわれるために、小さいやつが落っこちるのだ。そのために、われわれは皆んな、トコトンまで落っこちてしまわなければならないのだ! しかし、いつかは、巨大な大建築が土台石から、がた崩れに、くずれてしまう時が来る。来るにきまっている。
 彼は、大根ナマスのように、白楊の素地が軸刻機にきざまれて軸木の山が出来て行く、刻作業部を通りぬけて、用材置場から、薄暗い兵士のいない宿舎をちょっとのぞいた。
 背嚢や、毛布や、天幕や、外套が、乱雑に畳まれて、ごちゃごちゃと並べられていた。口をあけられた空鑵には、煙草の吸い殻が、うじ虫のようにつまっている。工人の大蒜や葱の匂いと、兵士の汗と革具の匂いが交錯して、寄宿舎の厚い重たい壁についているようだった。
 彼は靴のツマさきで歩きながら、東側のアカシヤのある入口の方へ通りぬけた。と、何か、バラバラと脚にふれるものがあった。見ると、それはビラだった。おやおやと思いながら、もう一度、そこを入念に眺めまわした。同じような恰好に畳まれた外套の畳み目や、毛布や、天幕の間にそれぞれ紙片がはさまれてあった。紙片は畳み目の中にかくれて見えないのもあった。が、また畳み目から舌のようにそのはしが見えているのもある。彼は、その一枚を取って見た。
 それは蝎《さそり》のように怖がられている伝単だった。
「へええ!」厳重極まる警戒線をくぐりぬけて、いつのまにこんな伝単が持ちこまれたか幹太郎には不思議だった。
 伝単には次のようなことが書かれてあった。彼はよんだ。

[#ここから1字下げ]
 日本人兵士諸君
 日本帝国主義ブルジョアジーハ、諸君ヲシテ、銃ヲ携エ砲ヲ持チ、急速ニ山東ノ地ニ来ラシメタ。而シテ、支那ノ軍事的分割ハ、既ニ始メラレタ。
 諸君ハ、日本居留民ノ生命ヲ保護スルタメニ来タノデアルカ。居留民ノ財産ヲ守ルタメニ来タノデアルカ? 否、断ジテ否! 思イ見ヨ、諸君ハ、現ニ、商埠遙ニ散在シテイル貧窮セル居留民
前へ 次へ
全62ページ中41ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒島 伝治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング