さいな》まれ、酷使されている。内地の職場にも、飢餓と、酷使と、搾取がある。失業地獄がある。支那へ来ても、また、同様なことがある。彼等は、労働者、農民の出身である彼等は、どんな場合のどんな瞬間に於ても、苦悩から脱却することは出来ないのだ。自分の生命を削らずに、生きて行くことは出来ないのだ。「そうだ、どうすれば、この邪魔になる重い足枷《あしかせ》を断ち切ることが出来るか!」
と、高取は考えた。彼は、誰れにすゝめられるともなく、マッチ工場の作業場に出入した。ドロドロの黄燐を冷す裸体の旋風器がまわっている。無頓着な工人は、旋風器の羽に、頭を斬られそうだ。
当直士官は、作業場への出入に対して、二三言を費した。兵士たちは、おとなしくそれをきいた。が、二三日たつと、又、作業場や、支那街を物ずきにほっついた。言葉は分らなかった。眼と眼が語りあった。顔と眼[#黒島伝治全集では「顔と顔」]が感情を表現した。
将校との対立は、いつとはなしに深くなっていた。上陸前に工藤が片づけられている。それが一層将校に近づき難い感じを与えた。それが、目前のカタキだ。
入浴も、飯も、勤務時間も、休む寝床も、はッきりと区別がついていた。兵士は麦飯だ。将校は米だった。苦楽を共にするのは兵士たちの間だけに於けることだ。彼らは、久しく入浴しなかった。将校は、毎日、製氷公司《チビンコンス》で風呂を立てゝいた。製氷公司の社員からビールや、菓子や、お茶を御馳走されて、牛のよだれのような長話をつゞけていた。兵士たちは、あとから、あいたら這入ろうと思っても、牛のよだれが長くって、はいるひまがなかった。彼等がはいれる頃には、もう晩がおそくなりすぎていた。
ある時、上衣を紛失《なく》した上川が、ぬれ手拭をさげ、風呂からあがりたての、桜色の皮膚で帰って来た。こっそり、おさきに這入ってきたのだ。愉快がった。
「製氷会社の奥さんは、金すじが光っとったって、光っていなくたって、何も区別をつけやしないんだ。タンツボにだって、あいているから、さきおはいんなさいって云ってるよ。居留民保護という段になりゃ、ベタ金だって、タンツボだって、働きに変りはねえからな。……ちゃんと、こら、俺れゃ、一番風呂に失敬してやった。」
「まだ、誰れも来ていなかったかい?」
「うむ、来ていない。」
「製氷会社の奥さんは、若い奥さんだね。」
「うむ、一寸、可愛い顔をしている。」
「よし、俺も行って垢を落してきよう。」
「俺も行くよ。」
「俺も行く。」
彼等は、泥棒をやる時の愉快さを知っていた。靴紐を結ばずに、靴の中へなでこんだ。十四人が、汗のにじんだ手拭をさげ、石鹸は一ツも持たずに、マッチ工場から、貧民窟とは反対側の雑草が青濃く茂っている広場を横ぎった。――チット人数が多すぎるぞ。が、一人をやめさすのなら、十四人がみなやめなければならなかった。赤い屋根の上に、巨大な貯水タンクがのっかっている。そこが製氷公司だ。
一町あまりも距っていた。
そこは、蛋粉工場へ行った中隊の方に近かった。門を這入る。ポンプが動いていた。
ふと、赤煉瓦建ての扉のうちから、将校らしいきれるように冴えた音声が呶鳴った。顔見知りの一等卒が、蛸《たこ》をゆでたように、真赤になって、似指《ちんぼこ》を振りだしのまゝとび出してきた。猫をつまむように、軍衣袴《ぐんいこ》と、襦袢|袴下《こした》をつまんでいた。
「何中隊のやつだッ!」扉の中から、きれるような声がひびいた。「人の迷惑も考えないのか! 今ごろから、早や、人の家に厄介をかける奴があるかッ!」
語尾が、カンカンあがった。
「どうしたんでえ?」
連隊中の顔を知らない者はない高取は、のんきげに、素裸体《すっぱだか》の一等卒にきいた。
「旅団副官だ。」
「副官が、どうしたちゅうんでえ?」
十四人は、扉の前で立止った。何だろう?
扉は、内から、ぐいと押しあけられた。
副官章を肩からはすかいにかけた、目立って鼻すじの通った貴族的な、中尉の顔が、兵士達の前に立ちはだかった。
副官は、剣吊りボタンをはずして、ぞろぞろ押しよせた十四人を、いぶかし気に睨みまわした――何ごとだ。何でこんな厚かましい奴らが大勢やってきたんだろう!
「閣下がおいでになるんだ! 帰れ! 帰れ!」
彼はきれるような声を出した。
「不埒《ふらち》な奴め! 帰れ! 帰れッ!」
十四人は冴えた音声に斬りつけられた。
「チェッ!」
高取はあっけにとられた。渡し場で舟に乗ることを拒まれた旅人のように、眼のさきの風呂場を、残念げに眺めた。そして、通ってきた雑草の広場を眺めかえした。
「チェッ! どうしたんでえ?」彼は口のうちで呟《つぶや》いた。
「くそッ! 誰だって人間なら、汗や垢が、ぬるぬるして気持が悪いなァ同じこった! チッ
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