! また、辛抱するかな。」
 将校よりさきに風呂に這入っていた兵卒が叱りとばされ、追い出されたのだ。
 ……間もなく、湯に浮いた垢がキレイに掬《すく》いとられていた。湯加減をした。風呂場の入口は、着剣した二人の歩哨によって守られた。アカシヤとバラが植えてある。
 扉の中から湯をチャバチャバいわす音がもれた。
 湯は、汲み出されたり、温められたり、水がうめられたりした。当番卒が背中を流すけはいがする。髯をあたるけはいがする。
 そうかと思うと、二十分間も、おおかた三十分間も、かたこその音響もしない。
 歩哨は、上気して、脳貧血でもおこしたのではないかと、扉のすきからのぞいて見た。鬚の閣下は浴槽の縁に頭をゆすぶりながら、居眠りをしていた。いい気持の鼾《いびき》が、かすかにもれた。
 歩哨は、退屈げに、扉の前を往き来した。その頸すじは、汗につもった土ほこりで、気持悪るく、じゃりじゃりしていた。足もとの地中から石が凸凹と頭を出している。二人は、十五万円の懸賞金で、便衣隊につけねらわれている閣下の頸の番をしているのだ。退屈さと、欠伸《あくび》をかんでいた。
 腕の時計は一時間を経過した。それから二十分が経過した。ようよう馬丁の爺さんが、うやうやしげな腰つきで、新らしいサル又を持ってはいった。乾いたタオルがいる。
「一と晩だけでいい、垢を洗い落して、サッパリした蒲団でねてみたいなア!」
「ゼイタクぬかすな。俺《おい》らにゃ、そんなことナニヌネノだ、とよ。」
 製氷所の機械場では、黄ろいホコリをかむった蟇のような靴を、マメだらけの足にひっかけて兵士達が、しびれをきらして、自分達の番を待ち、待っていた。
 夕暮れは白く迫ってきた。

     二〇

 籠のカナリヤが軒で囀《さえず》っていた。
 大陸の気温は、夜になると、急激にさがってくる。
 肌の襦袢がつめたくッて気持が悪い。工人は自分が食えなくっても、小鳥をば可愛がっていた。不思議な趣味だった。
「ふむ、なる程、なる程、面白い!」と高取は頷《うな》ずいた。
「もっとやれ、もっと何か話をしろ!」
 彼の声は怒るようだった。依然としてあたりを憚らなかった。
「回々《フイ/\》教徒、人悪るい。よろしくない。冬、日が短い。暗くなる早い。電気つかない。工場暗い。われ/\顔見えない。男と女、いつもちちくる。始める。」鼻づまりの工人が分りかねる日本語で語りつゞけた。「回々教徒、人悪るい、ちちくりながら、ひとの[#「ひとの」に傍点]ツメたマッチ函、かッぱらって、自分のツメた函にする函多い。金多い。」
 時以礼《シイリイ》という工人である。蒼ざめて、骨まで細くなったような、おやじ[#「おやじ」に傍点]に見える男だ。年をきくと、三十一歳だった。まだ若い。
「ふむむ、暗くなると男工と女工がちゝくり合うんだね。その騒ぎにつけこんで、回々教徒が、人がつめたマッチを、自分がつめたようにかっぱらうんだな。なる程、面白い、面白い。」と高取は頷ずいた。「もっとやれ、もっと何か話をしろ!」
 工人は、だんだんに兵タイを怖がらなくなった。兵士は、大蒜《にんにく》と、脂肪と、変な煙草のような匂いのする工人の周囲に輪を描いた。
「あの、窩棚《ウオバン》の向うの兵営のそのさきに、英吉利人のヘアネット工場ある、私の妹、そこの女工、毎日、ふけ[#「ふけ」に傍点]とゴミばかり吸う」と、時以礼はつづけた。「妹、髪と、ゴミくさい。胸、悪るい。肺病。ヘアネットの髪、田舎の辮髪者の髪、三銭か四銭で切らして、仲買人、公司《かいしゃ》へ持って来て売る。辮髪切らない者、税金を出せという。公司、仲買人の持ってきた髪を、また六割か、五割に値切る。――仲買人、掛値を云うて持ってくる。私の親爺、昔の人、辮髪税、取られている。親爺、辮髪切りたくない。仲買人、巡警と来て、切れ、切らなければ、税金をとるという。――そんな税金、仲買人と、巡警が勝手にこしらえた税金、そんな税金ない。でも、辮髪きらない、税金無理やり取って行く。英吉利人の公司、仲買人と巡警に金掴ましている。……英吉利人、米国人、独逸人、日(云いかけたが、時以礼は口を噤んだ)……みな、支那、百姓、工人、苦るしめる。私達生きる。つらい!」
「エヘン!」
 雷のような咳払い。がちゃッという、軍刀と靴の音。すぐ、兵士達の背後で起った。重藤中尉が、知らぬまにうしろへ来て立っていた。びくッとした。
 時以礼は、唖のように口を噤んでしまった。中尉は、時《シ》を、六角の眼でじいッと睨みつけていた。支那人は、罪人のように、悄々《しお/\》とうなだれて立上った。そして、力なく肩をすぼめて、音響《ひゞき》一ツ立てずに去ってしまった。
「あいつは、お前達に思想宣伝に来とるんだろう。ここの工場にだって赤い奴が這入っとるんだぞ。あ
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