わしやがったくらいにゃ、承知しねえぞ! ヒョットコ野郎奴!」
 小山は、あっけにとられた。
「叩き殺してくれるぞ。ヒョットコ野郎奴!」
 兵士は高取だった。

     一八

 後発部隊が到着した。寄宿舎は狭くなった。
 ベッドもなく、藁蒲団もなく、床の上に毛布をのばして、ごった寝にねた。高梁稈のアンペラが破れかけていた。下から南京虫がごそ/\と這い出してくる。
 南京虫は、恐らく、硫黄や、黄燐くさい、栄養不良な工人の病的な肌の代りに、どうしたのか急に、汗と脂肪《あぶら》ぎった溌剌たる皮膚があるのを感じて、いぶかしげな顔をしただろう。
 高取は、あとからきた者達と、暫くあわずにいた。その間の行程を、おたがいに話しあった。
 彼等は、門司から御用船に乗る際、同様にビラを拾っていた。それを胸のポケットへ、畳んで、お守りのように大事に、しのばしている者もあった。
「俺等が桟橋通りを歩いていたら、天からビラの雨が降ってくるじゃねえか。」と彼は笑った。
「上を向いたら、なんだ、組合の安川が窓から頸を出して、引っこめよう、としとるところだよ。――しっかりやって来い! と呼ぶから、どんなに、しっかりやるんだい! と云ってやったら、しっかり、あっちの連中と手を握って来い! とおらんでるんだよ。」
 のんきに、高らかな声を出した。
 傍へ特務曹長がきかゝった。誰かを呼びに来た。彼は「しっかり、チャンピーと手を握って行くかな。」
 と大声で、又笑った。
 無意識に破れかけのアンペラのはしを、ひきむしる彼の手は、マメだらけで、板のようにかたくなっていた。
「工藤は、とうとう、船の中で片づけられちまったよ。」尻眼で特曹に気を配りながら、木谷が囁いた。
「一人で意気まいたって駄目だからと、止めたんだがね、あいつ、多血質だから、きかないんだ。」
「今度は、なかなか労働組合や、俺等の反対に敏感になっている。」高取がしめつけられるように声をひくめた。「日独戦争や、シベリア出兵時代とは、時代が違うからね。俺等もブルジョアの手先に使われてたまるかい、くらいなこたア知ってるが、ブルジョアもまた、俺等の出兵反対に敏感になってる。三月十五日の検挙はやる、四月十日の左翼の三団体の解散は喰らわす。それから出兵。何から何まですべてが、ブルジョアの方が、はるかに用意周到で組織的じゃないか。」
「どんな障害を押しのけても、まっさきにここは占領しなけりゃならんと思ってるんだな。」
「そうだよ、そうだよ、支那を取るためにそう思ってるんだよ。」
「しかし、俺等は、俺等として出来るだけサボって邪魔をしてやるさ。鉄砲をうてと云われたって、みんなうたねえんだな。」
 だが、彼等は、まだ、自分たちの支配者を憎み、出兵に反対していたが、皆なが同じ一つの意見を持っているのではなかった。
 この現在の持場において俺等が、今すぐ、一箇師団を内地へ引き上げさし、支那から手を引かすことは、なし得ない。出来ない相談だ。しかし俺等は、俺等として仕事がある。如何に、軍隊が、俺等の目あてに反することに使われていようが、それだからと云って軍務を放棄してはいけない。俺等は、俺等が、本当に生れ出る日のために、市街戦を習っておくのだ。装甲自動車の操り方を習っておくのだ。その日のために戦うのだ。
 木谷は、小声で語った。高取は、半分頷き、半分かぶりを振った。
「その日のためにか。それはいゝ。しかし、君はいつも気が長いぞ。しかし、現在、吾々の眼前で、吾々の手で叩きつぶされつゝある支那の労働者はどうするか?」
 二人は、入営前まで、同じ工場で働いていた。木谷は、几帳面《きちょうめん》で、根気強い活溌な性質がとくをして、上等兵になっていた。
 高取は一年間の勤めを了えて、二年兵になったその日に、歩哨に立っている場所を離れて鶩《あひる》を追っかけまわした。そして軍法会議にまわされた。
 彼は、夕暮れに、迷《ま》い児《ご》となった遅鈍な鶩を、剣をつけた銃で突き殺そうとした。そして、追っかけた。
 練兵場から、古いお城の麓の柴山の中にまで、五町ほど、鶩を追って、追いこんでしまった。鶩は、ぶさいくな水かきのある脚を、破れるばかりにかわして、ひょくひょくした。とうとう突き殺せなくて、靴で踏みつぶした。彼はホッとした。そして長い頸を垂れた鶩の脚を提げて立ちあがった。その時、巡察将校に見つかってしまった。
 彼は、償勤兵となったことを、恥ずかしがりもしなければ、引けめに感じもしなかった。機械を使うのがすきだった。殊に、軽機関銃を使うのがすきだった。空砲射撃の時にでも、多くのよせて来る奴等を、この銃一ツで、雨が降り注ぐようにやッつけることを想像しながらタッタタタとやっていた。
 すこし馬鹿な、まがぬけた彼の性質が、みなの人気をあおっていた。
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