「なに?」
「リンチだ、リンチだよ!」
 于立嶺《ユイリソン》という、肩の怒った、皮肉な顔つきの工人が、二人の把頭の腕の下で、頸をしめられた雄鶏のように、ねじられて、片足は、しきりに空を蹴っていた。
「監督が、爪の裏へ針をつき刺しているんだ。」
 貝形の爪が、指さきの肉と、しっかり膠着《こうちゃく》している。その肉と爪の間へ、木綿針をつきさしている。小指からはじめて、薬指、中指、人さし指に針をつきさゝれていた。二本の手は動かせないように、二人の把頭によって、しっかりと脇の下にからみつけられていた。
 工場の騒音をつんざいて、う――うッと唸る声がする。兵士達は、自分の生爪《なまづめ》をもがれるように身慄いした。
 于立嶺は、平生から社員に睨まれていた。頭のさげッぷりが悪かった。監督や、把頭が何か云っても、ふゝんと、うそぶいている。そんな男だった。それで殊に小山から睨まれていた。
 高取は、蛋粉工場においても、工人達が兵士の威嚇を受けて、すくみ上っているのを知っていた。そこでも社員のリンチが行われた。兵士達はそれを見た。そして、そういう私刑をやるのなら、工場の守備は御免を蒙る、と云い出した。
 その蛋粉工場の中隊は、内地でも有名な中隊だった。日清戦争にも、日露戦争にも全滅した歴史を持っていた。毎年、二、三カ月で、現役から、おっぽりかえされるシュギ者が不思議にも、二人か三人這入って来る。工場の社員が、軍隊を笠に着て、工人を虐待する心理を読むと、その中隊の兵士達は承知しなかった。
 ――そうだ、ここの奴等も、俺達を笠に着てやがるんだ。と高取は思った。くそッ! 人を馬鹿にしてやがら!
「貴様、このあいだの、賃銀をよこせと云ってきた時のように威張ってみろ!」と小山は呶鳴っていた。
「何だ、ひいひい泣きやがって、もう一度、あの晩のような、横柄な口を利いてみろ!」
「うむ、支那じゃ、職工を殴り殺すやつもあるときいとったが、やっぱりむちゃくちゃにやるんだな。」
 兵士は恐ろしいものに近づくように、ぼつぼつ、ぼつぼつと、軸木を拡げた蓆の間を縫って、現場へ近づいた。彼等は、ビンタを殴ったり、殴られたりはしたことがある。しかし、爪に針をつき刺すのは、見るのも今が始めてだ。錆びた針が、爪の根の白い三日月にまでつきさゝった。紫ずんだ血が、半透明の爪の下に、にじんでいた。
「こんな奴にちやほやする青二才があるから、のさばりやがるんだ。(これは幹太郎へのあてつけだ。)貴様、共産党の手さきであろうが!――工場が占領出来るんなら、占領して見ろ!……こらッ! もう一度、あの晩のような口はばったいことを、ぬかして見ろ!」
 小山は近づいてくる兵士達が、自分のうしろ楯《だて》だと意識した。
 怒りにゆがんだ彼の顔が、兵士たちの方へは、一寸、にこりとほころびた。
 が、于《ユイ》に向っては、すぐもとの通りにひきゆがんだ。
 職場で、工人達は、水を打ったようにしんとなって、耳を澄まし、仕事をつゞけていた。器械の動く騒音だけはつづいていた。
 ある者は、軸列機を動かす手を休めて、そッと、社員に発見されないように、窓のかげから、小山が、于のもう一方の拇指《おやゆび》に針を突き刺すのを見つめていた。やはり、それを見ている、気の弱い少年工は、自分が刺されるような気がして、顔をそむけた。
「貴様ッ、まだ、ふてぶてしくかまえていやがるんか!――李、今度は、濡皮鞭《ぬれかわむち》だ、濡皮鞭を持って来い!」
 小山のかんかん声がひゞいた。
 ノホホンをきめこんで、作業をつゞけていた工人までが、今度は、はッとした。手をとめ、お互いに顔を見合わした。于立嶺が、代表者の一人となって、賃銀支払の要求を突きつけた、そのかたき[#「かたき」に傍点]を打たれている。彼等は、それを知っていた。同時に、于、一人に、リンチを加えるだけでなく、工人全体をも嚇かしている意味を知っていた。――兵タイさえ、居なけゃ、俺等が、みんなが立ってやるんだ! と、心で泣いている者もあった。
「どうです、もう、いいかげんでよしてはどうです。」
 と、見ている兵士の柿本が云った。
 工人達は、小山の骨ばった手に握られた濡皮鞭を見て、裸体にひンむかれて、筋肉がぼろぼろにちぎれるほどしぶきをあげられる、場面を眼の裏に描いた。
 警察の拷問によくある場面だ。
 于の悲鳴と、小山の噛みつける声がも一度した。濡皮鞭が、物体に巻きついた。ピシリ。ピシリ。切れるような音だ。
 その時、豪放な、荒っぽい兵士がとび出した。
「よしやがれ! コン畜生! 出来そこないめ!」
 兵士は、小山の病的な横ッ面を張りとばした。濡皮鞭を持った小山の骨ばかりの手は、たくましい兵士の腕で、さかさまに、ねじ曲げられた。
「俺等が来とると思って、工人をひどいめにあ
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